松井大輔「35歳からはずっと、自分らしい終わり方を探す旅だった」
街に馴染み、結果を残し、愛される選手になれた
――35歳くらいからは、自分らしい終わり方を探す旅だったということですが、それ以前はどういう意識だったのでしょうか? 「純粋に日本代表に入りたい、そのクラブで活躍したい、上へ行きたいという自分の価値を上げたいという想いが強かったですね」 ――ル・マンでは1部昇格に貢献し、『ル・マンの太陽』と呼ばれました。フランスリーグは、アフリカ系の選手も多く、高い身体能力で勝負するリーグ。日本人で結果を残す選手はあまり多くはなかった。なぜ、長くフランスでプレーできたと思いますか? 「海外で生き残るためには、リーグや国に馴染まないといけないし、もしくは結果を残す。両方あれば良いですし、馴染まないと結果が残せないという面もあります。でも、馴染めなくても結果が残せる選手もいますよ。だけど、両方ある人は愛される。僕はそれができたと思っています。行ったばかりのころは、フランス語も話せなかったけれど、チームメイトや近所の人の輪の中へ飛び込んで、言葉を覚えていきました。そうやって街やチームに溶け込んでいけたことが、大事だったなと思っています」 ――そうやって、クラブや街に愛された。 「愛された選手は、クラブで活躍し、街のシンボルになっていくんです。ル・マンは小さなクラブだったので、そこから、売られていくことで『あいつはすごい選手になった』とサポーターの自慢になるんです。そういう文化が日本にも生まれるといいなと思いますね」 ――ル・マンから古豪のASサンテティエンヌへ移籍した松井さんはまさに、自慢の選手になりましたね。けれど、ASサンテティエンヌはビッグクラブ。クラブ内の政治に巻き込まれたりして、出場期間も不安定だった。そこで、ワールドカップ南アフリカ大会に備えて、2009年にグルノーブルへ移籍。2010年の同大会での活躍で、ポルトガルの強豪スポルティングCPへの移籍の可能性が生まれたものの、移籍期間ギリギリで破断に。グルノーブルから、ロシアのFCトム・トムスクへレンタル移籍となりました。 「当時からグルノーブルは財政的な課題を抱えていたので、僕が移籍することでお金も落とせると思っていたけれど、なぜか移籍はできませんでした。トムスクはロシアと言っても、モスクワからも遠い場所で、しかも極寒。基本的に天気が悪く、いつも暗くて、経験したことのない毎日でしたね」