『独学大全』著者が「画期的。誇張抜きで、文章術の教科書は、本書以前/以降に大きく分かれる」と驚いた一冊とは?
画期的な文章術の本として、いま大きな反響を呼んでいるのが『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(阿部幸大著/光文社)だ。アカデミック・ライティングとは、直訳すれば「学術的に書くこと」。つまり論文やレポートを執筆するための作法を指す。一見、ゴリゴリの学術書だが、そこには文章とはどうあるべきか、どのように考えれば「書ける」ようになるのかという、万人に開かれた技術と知恵が詰まっている――と語るのは、『独学大全』の著者である読書猿氏だ。読書猿氏をして「文章本は、この本以前/以降に分かれるだろう」と言わしめた同作の著者である、筑波大学の阿部幸大助教をゲストに迎えた対談(全4回)をお届けする。(構成:ダイヤモンド社書籍編集局) 【この記事の画像を見る】 ● 文章術に「新たな系譜」現る ――読書猿さんは、『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』をどのように読まれましたか? 読書猿 この本のスゴさは3つあります。 第一に、実用と人文知の理想的なカップリングを実現した本であること。僕自身、実用書を書くにあたって人文知の方法論を意識してきましたが、阿部さんの本はまさにその理想形。人文学を極めることで実用に達し、実用を極めることで人文知に達する――自分もこんな本を書きたいと、最初に読ませていただいたときに強く思いました。 第二のポイントは、「文章本」としても画期的な一冊であるということ。誇張抜きで、文章術の教科書は、この本以前/以降に大きく分かれるのではないかと思います。 というのは、これまでに世に出た文章本は大きく3つの系譜に分類できると思うんです。 まずは「名文の手本」を示すもの。その歴史は古く、中国南北朝時代の『文選(もんぜん)』や、唐代に編まれた手紙の文例集である『杜家立成』などがこれにあたります。書けるようになるためには誰でも真似からはじめるわけで、その意味でこうした指南書は間違いなく役に立つ。でも、考えなしに真似していると、文章のキメラ、つまり多様なスタイルの雑多な寄せ集めが出来上がってしまう。この段階を乗り越えるには、自分が書いた文章を吟味できる必要があるんですが……ということで登場するのが、次の系譜である「悪文批判本」です。 日本語における悪文批判本の代表は、岩淵悦太郎編著『悪文』(1961)や、ジャーナリストの本多勝一が著した『日本語の作文技術』(1976)でしょう。読みづらい文章を読みやすくするためのルールが細かく解説されており、それこそ「名文のキメラ」のようになってしまった自分の文章を見直す視点と考え方を教えてくれます。半世紀近く前の本ですが、今でも現役で役に立つ。しかし、この種の本は、「悪文」であれ何らかの文章を自力で書ける人が、よりよい文章を目指すためのものです。どうやって書けばいいか、書くのに何をすればいいかわからん人が読むと、「書く気がなくなる」んですよ(笑)。書く前から心が折れてしまう(笑)。 つまり「悪文批判本」は、すでに書かれた文章を批判することはできるけれども、新しい文章を生み出すことができない。それでは困るよね……ということで登場するのが、3つ目の系譜である「文章構成術」の本です。これはアメリカのライティング教育の影響を受けたもので、「アカデミック・ライティング」も、この系譜にあたります。 ● 「なぜ、書けないのか」へのファイナルアンサー 読書猿 20世紀半ばにアメリカでアカデミック・ライティングが発展した背景には、当時の大学の事情がありました。第二次世界大戦後、コミュニティカレッジの設立や、除隊軍人の進学などによって、それまでとは異なる層の学生が大量に大学に流入します。その多くは「文章を書けない」人たちでしたが、大学教育を成立させるには、彼らにも論文やレポートを書くスキルを身につけてもらわなくてはならない。 そこで考案されたのが、論文を書くための明確なフォーマットと手順を示した方法論であるアカデミック・ライティングです。この方法は、覚えやすく、教える側も指導しやすいというメリットがありました。評価基準が明確なので、テストなども実施しやすい。文章を書くことに不慣れな人たちに向けたメソッドとしては画期的だったのです。 ところが、それでも書けないという人は、相当数出てきてしまう。阿部さんの『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』は、こうした人たちの救世主とも言うべき「第4世代」の文章本なのだと思っています。つまり「やり方を教わっても書けない人はどうすればいいの?」という問いに、ばっちり答えてくれるんですね。 阿部幸大(以下、阿部) ありがとうございます。なんだか拙著がものすごく偉い本に思えてきました(笑)。実用書、すなわち「読むだけで終わらず、実践できる本」を書かれている読書猿さんに、そう評価していただけるのは嬉しいですね。 論文を書く人間にとって、アカデミック・ライティングは実用的なスキルそのものです。多くの学生が大学でその作法を学びますが、実際にはなかなか書けるようになりません。意欲的な学生は、救いを求めてアカデミック・ライティング本に手を伸ばすのですが、その一人である私自身が感じたのは、私たちに「できないこと」が何なのかをわかっていない人が書いているな……ということでした。 私が今回の本で目指したのは、出発点として何も持っていない、とはいえ論文は書かなくてはならない人が、まず何をすればどこまで到達できるのかを示すことだったのです。 ● 汎用的な「習得の技法」 読書猿 その手つきがすごく人文的だなと感じました。 悪文批判本が「◯◯するな」というのに対して、従来のアカデミック・ライティングの本は、「〇〇をしなさい」と教えるものです。例えば、模範的な文章構成のルールである「パラグラフ・ライティング」による、パラグラフの先頭にはトピック・センテンスを置きなさい、そのあとはこう展開しなさい……といった説明は、どの本にも載っているものです。 しかし、阿部さんの本では「そもそも○○とは何か」という問いかけを徹底的にやる。引用文献とは何か、アーギュメント(主張)とは何か、ひいては論文とは何か――。こうした根源的な問いを通じて、人文学的な探究が実用的なスキルへと結実していく。 このアプローチによって、これまでの指導法では書けるようにならなかった人たちが、ようやく自分なりの型を使いこなせるようになる。だからこそ、アカデミック・ライティングの範疇にとどまらず、広い意味での文章本としても役に立つ。その意味で画期的な一冊だと思います。 阿部 おっしゃるとおり、この本は、ガワこそ完全に大学生向けの教科書ですが、一般的な文章術の本としても使えるし、もっと抽象化するなら「何かを分析して自分でできるようにする」という本なのだと思っています。だからこそ、本の帯文は読書猿さんに書いていただきたかった。 本の中でも紹介したのですが、ジョッシュ・ウェイツキンという人の書いた『習得への情熱(原題:Art of Learning)』(みすず書房)という本があります。この人はチェスの世界チャンピオンで、のちに太極拳のチャンピオンにもなるのですが、自分はチェスの天才というわけではなく、何かを学ぶのが自分の才能だと語っている。そのための「技法(art)」を語った本なんですね。 私もずっと似たようなことを考えていて、今回の本はそれをアカデミック・ライティングでやったという感じです。『習得への情熱』が持つような、まったく違う分野への応用可能性というものも、意識して書きました。 (第2回に続きます) 阿部幸大(あべ・こうだい) 筑波大学人文社会系助教、日米文化史研究者。 1987年、北海道生まれ。2006年、北海道釧路湖陵高校卒業。2年の自宅浪人を経て、2008年、東京大学 文科三類に合格。その後大学院に進学、2014年、東京大学大学院現代文芸論修士課程修了。2014年、東京大学大学院 英語英米文学 博士課程進学。その後渡米し、2023年、ニューヨーク州立大学にて博士号取得(PhD in comparative literature)。2024年~現職。『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』は初の単著。 読書猿 ブログ「読書猿 Classic: between/beyond readers」主宰。「読書猿」を名乗っているが、幼い頃から読書が大の苦手で、本を読んでも集中が切れるまでに20分かからず、1冊を読み終えるのに5年くらいかかっていた。 自分自身の苦手克服と学びの共有を兼ねて、1997年からインターネットでの発信(メルマガ)を開始。2008年にブログ「読書猿Classic」を開設。ギリシア時代の古典から最新の論文、個人のTwitterの投稿まで、先人たちが残してきたありとあらゆる知を「独学者の道具箱」「語学の道具箱」「探しものの道具箱」などカテゴリごとにまとめ、独自の視点で紹介し、人気を博す。現在も昼間はいち組織人として働きながら、朝夕の通勤時間と土日を利用して独学に励んでいる。
読書猿/阿部幸大