イチから分かるキューバ なぜ米国と国交が途絶えた?
米オバマ大統領とキューバのラウル・カストロ国家評議会議長の会談が4月11日に実現しました。両国の首脳会談は、実に半世紀ぶり。国交回復に向けた「歴史的な第一歩」と伝えられます。世界の眼があつまるキューバ。この3月、首都ハバナから東端のバラコアまで7都市をまわり、人びとの暮らしをのぞいてきました。2週間の現地訪問をもとに、キューバの「いま」をお伝えします。 米国とキューバが国交正常化へ 今後はどうなる?
◆そもそもなぜアメリカと国交が途絶えたの?
カリブ海にうかぶキューバは、アメリカと目と鼻の先です。フロリダ半島から約150キロ。松江~竹島(約220キロ)よりずっと近く、東京~静岡(直線)とほぼ同じ距離です。しかし太平洋をはさんだ日米よりも、政治的にはずっと遠い距離にあります。 20世紀初め、アメリカとの関係は良好でした。 1898年、圧政を強いる宗主国スペインを破り(米西戦争)、キューバ独立を支援してくれたからです。多くの米国企業が進出し、グアンタナモには米軍基地も設置されました。キューバはまさに「アメリカの裏庭」だったのです。 同時に、キューバ経済はアメリカなしでは成り立たなくなっていました。富は米国企業に独占され、国民生活は窮乏の一途をたどったのです。しかし1952年、クーデターで政権の座についたバティスタは、便宜を図った米国企業からの見返りで私腹を肥やすばかり。独裁政権の下、マフィアも暗躍し、事実上「米帝国主義」の搾取の対象になったのです。首都ハバナは、強盗、麻薬、売春の魔窟(まくつ)と化していきました。
そんな中、立ち上がったのが、弁護士フィデル・カストロでした。一度目の蜂起は失敗に終わりましたが、1958年に再蜂起して勝利。このときゲリラ戦で活躍したのがチェ・ゲバラです。バティスタは国外に逃亡、翌年1月1日カストロが革命政権樹立を宣言すると、国じゅうが歓喜の渦に包まれました(キューバ革命)。ただし当初、カストロは社会主義を掲げていたわけではなく、極端な反米感情を持っていたというわけでもありません。 両国が国交を断絶したのは、2年後の1961年のことです。カストロ政権は腐敗の温床となった米企業の資産を接収し、国営化します。米ソ冷戦下、アメリカは「裏庭」が共産化することを恐れました。亡命キューバ人に武器を供与し、カストロ政権打倒を企てたのです。しかし、失敗。アメリカは経済封鎖に舵を切り、キューバ危機で対立は決定的なものになりました。ちなみに国交断絶の1961年、バラク・オバマが生まれています。その後、キューバは支援を申し出たソ連と「蜜月関係」を築いていきます。 なおこの時、私有財産や土地を接収された富裕層の多くが海外に移住しました。現在、マイアミ(フロリダ半島)を中心に、アメリカには100万人以上のキューバ系移民が暮らしています。もちろん社会主義を嫌悪する「反・カストロ派」が大半。共和党の大きな票田になっています。