『海のはじまり』夏と海が選んだ家族の“形” 水季が残した“つながり”と“選択肢”
よく「親からの愛は無償の愛である」と言われるが、実際はその逆かもしれない。真の無償の愛は、むしろ子どもから親へ向けられるものではないだろうか。 【写真】部屋の中で座っている夏(目黒蓮) 水季(古川琴音)の「親から子どもへの一番の愛情って選択肢をあげることだと思う」という言葉の、“選択肢”とは単に進路や習い事の選択肢を増やすことにとどまらない。より本質的には、誰と生きるかの選択肢を与えることを意味するように思えた。自ら選んだ人々と“つながり”を教えてあげること。それもまた、親の愛の一つの形なのだと思わされた『海のはじまり』最終話だった。 朝、パジャマ姿で横たわる海(泉谷星奈)に、朱音(大竹しのぶ)と翔平(利重剛)は優しく声をかけた。「朝ご飯を食べようよ」。しかし、海は「……食べたくない」とそっぽを向いてしまう。朱音は黙って台所へ向かい、おにぎりを握る。そっと海の傍らに座り、「食べなきゃダメ。生きなきゃいけないから」と、小さなおにぎりを差し出す。そして、朱音は水季が旅立った日もご飯を食べたことを語り出す。どれほど胸が痛み、食べる気力さえ失っていても、小さなおにぎりを口に運び、明日を生きなければいけない。それが生きるということなのだ。 私たちは日々、さまざまな記憶を抱えながら生きていく。辛かったこと、嬉しかったこと、忘れたくないこと、忘れたいこと。弥生はかつての妊娠中絶について「いたって事実は大切にしようと思った」「忘れなくていいって思うと、安心して忘れるための時間を作れたの」と振り返る。 何かを忘れないと、前を向けないこともある。しかし、必ずしもそうである必要はない。忘れることと向き合うこと、その過程や時間の使い方は、一人ひとり違うのだから。最終回の直前に目黒蓮が自身のInstagramに「作中でも伝えていますが、自分を犠牲にしてまでも誰かを優先するのではなく、自分を大切にして欲しいです」と書いていたように、大切なのは、自分のペースで、自分なりの方法で前に進むこと。夏(目黒蓮)は夏の時間軸の中で、海は海の時間軸の中で、それぞれのやり方でゆっくりと、前を向いていくのだろう。 時には立ち止まっても、大切なのは、その記憶とどう付き合っていくかを、自分で選ぶこと。それは、水季が海に最後に教えてあげた、生きていく上での一つの術ともいえるのかもしれない。 最終回を迎えた今、このドラマがはじまる直前の生方のインタビューでの言葉を思い出す。 「伝えたいわけじゃないことは、『家族は素晴らしいもの』ということです。家族を嫌いだっていいと思っています。家族ではない“つながり”を持った登場人物たちの感情や選択が何より重要な作品だと思っています」 家族と聞くと、ある意味では選べないものにも思える。血のつながりは時にどうしようもなく濃い。でも、そうでない"つながり"を持つ人だって家族と呼べるはずだ。弥生(有村架純)が「私が楽しいかどうかは私が決めます」と昔の夏に言ったように、自分が誰と一緒にいるのが楽しいのか、一緒に生きていきたい人は決められる。弥生も、津野(池松壮亮)も、大和(木戸大聖)も夏のアパートに居合わせたのは、海と夏の力になりたいからなのだ。 水季の手紙の中に書かれた「人は2人の人から生まれてきます。1人で生きてくなんて無理なんだよ」という言葉は、自分で選んだ人たちと支え合って生きていく、そんな関係性もまた、確かな“家族”なのだと思わせてくれる。血縁だけが家族じゃない。そして、「亡くなった人」もその人の記憶の中で生き続ける大切な家族なのだと。 親になること、家族になること。それは「始まりは曖昧で、終わりはきっとない」。一瞬の出来事ではなく、日々の小さな選択や行動の積み重ねが、いつしか、かけがえのない関係を築いていく。私たちは皆、誰かとつながりながら生きている。それは血縁であっても、自ら選んだ絆であってもいい。その“形”は、誰かの愛に触れ、その愛に応えようとする瞬間から、少しずつ作られていくものなのかもしれない。
すなくじら