B-29で日本を焦土にし、その日本から勲章をもらった「戦略爆撃の立役者」の意外な経歴
核兵器開発者を描く映画「オッペンハイマー」で、改めて広島・長崎への原爆投下が取り沙汰されているが、実はその前に戦略爆撃によって日本の多くの都市が焦土と化していたことも忘れてはならない。 【写真を見る】日本国民を焼き尽くした作戦 〈実際の写真〉
日本国民を焼き尽くした戦略爆撃の立役者とされるのが、カーティス・E・ルメイ。軍事史に詳しい大木毅さんの新刊『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』(新潮選書)でも、一章を割いてルメイの生涯と戦歴を紹介している。 最終的に空軍大将にまで登り詰めたルメイとは、いったいどんな人物だったのか――。以下、同書をもとに、彼の数奇な運命について振り返ってみよう(『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』第12章をもとに再構成)。 ***
(最初の)東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年12月、ルメイは日本政府から勲一等旭日大綬章を授与された。航空自衛隊の育成に尽力した功績によるものだった。終戦から19年、かつて日本全土を焼尽した男への授章は、当然ながら国会を始めとして、さまざまな場所で議論を巻き起こした。 ルメイは1906(明治39)年、オハイオ州でフランス系の家庭に生を受ける。彼が空に興味を持つようになった時期は明確だ。1910年11月7日、間もなく4歳になる彼は、裏庭で頭上を飛び去る機械を目撃する。ライト兄弟のB型飛行機がデモンストレーション飛行をしていたのだ。この瞬間から飛行機に魅入られたルメイだが、そのまま軍人への道には進まず、オハイオ州立大学に進み土木工学を専攻する。 一方で在学中にROTC(予備役将校訓練課程)を受講し、陸軍予備将校の資格も得た。しかし、航空勤務の魅力には抗えなかったようで、飛行訓練を受けて現役の少尉となり、追撃機(いわゆる戦闘機)中隊に配属されるが、大学の学籍は抜かず、単位履修にも励んだ。日本では考えにくいことだが、当時の米陸軍は、ROTC出身の士官が大卒の資格を得られるよう配慮していたというのだ。