B-29で日本を焦土にし、その日本から勲章をもらった「戦略爆撃の立役者」の意外な経歴
自らも爆撃機に搭乗し指揮したルメイ
最初は追撃機乗りとしてスタートしたルメイだが、ハワイの基地で初めて経験した爆撃機訓練が、すべてを変えた。さっそく爆撃機へ転科すると、以後、主として当時最新鋭の4発重爆撃機B-17で経験を積む。日米開戦時には少佐となっていた彼は、部下に猛訓練を強いる鬼士官として恐れられた。 42(昭和17)年、イギリスに展開する第8航空軍の指揮下で、大損害を出していたドイツ本土爆撃に新たな戦術を提案。しかも、自らも爆撃機隊の一機に搭乗し、体を張って作戦を指揮し、優秀さと将兵に対する苛酷さを示した。出世街道を驀進したルメイは37歳の若さで少将となり、今度は太平洋に戦場を移す。 ここでルメイは、彼の名前と不可分に結びつく高性能爆撃機、「超空の要塞」B-29と出会う。時代のはるか先を行くこの空の怪物は、彼がライト兄弟機を目撃して以来の夢を実現させることとなる。ヨーロッパで用いた高々度からの精密爆撃は、ジェット気流が吹き荒れる日本では適当でない。ならば焼夷弾を用いて、低い高度からの爆撃を行い、日本の都市を焼き払うのはどうか。特に日本の零細企業や下請けの家内工業の多くは、個人の住居に置かれている。これらは非軍事目標ではなく、日本の継戦能力の拠点である――。こうした戦術はルメイが独自に考え出したものではなく、合衆国陸軍航空軍が戦略爆撃の効率を追求するなかで生じたものだった。しかし、それを徹底的に実行したのがルメイであったこともまた事実だ。 45(昭和20)年1月、マリアナの第21爆撃兵団の指揮官となり、2月には低高度からの焼夷弾攻撃の指令が下る。その後の「成果」については、改めて語る必要もあるまい。最終的には米空軍大将にまで登り詰めたルメイは、コロラド・スプリングスの合衆国空軍士官学校墓地に葬られた。
ルメイの赫々たる戦歴には、日本であれば軍の首脳を独占した、いわゆる士官学校(米陸軍であればウェストポイント)出身者ではなく、ROTC出身者であったことが影響していると、大木氏は指摘する。以下はその引用である。 「かくのごとく、ルメイは、陸軍航空軍が空軍となる過程における用兵思想の変化を体現した人物であった。彼自身は必ずしも独創的な戦略思想家というわけではなかったが、その個性と、ROTC出身ならではの、陸軍士官学校卒の航空軍将校の価値観に拘泥しない姿勢は、あらたな用兵思想を現実のものとするには打ってつけだったように思われる。 日本空襲に際しての彼の役割を考えるには、そうしたキャリアや組織内での独自の位置といった側面を加味しなければならないのではないだろうか」 いかがであろうか。すでに19世紀から制度としてROTCを設けていたアメリカと、陸士海兵出身者以外の士官が軍の中枢にいることが想像できない日本、この彼我の差は大きかろう。日夜、「構造変換」にさらされている21世紀の戦争においても、各国軍隊の士官学校出身者が伝統的に持っている価値観が、常に最適解を示すとは限らない。 ※本記事は、大木毅『決断の太平洋戦史 「指揮統帥文化」からみた軍人たち』(新潮選書)に基づいて作成したものです。
デイリー新潮編集部
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