熊本県河原小学校避難所、「うちは『待つだけの避難所』ではなか」
避難住民の命を支える給食室の大鍋
「夕飯の炊き出しは、カレー麻婆よ」。給食室の大鍋を大きなしゃもじでかき混ぜながら、女性(65)が教えてくれた。 16日未明、熊本地方を襲った「本震」で大きな被害が出た熊本県西原村。避難所のひとつ、河原小学校の給食室では、22日も食事が作られていた。近くの豆腐製造会社が寄付した豆腐と、住民たちが、壊れた自宅から持ち寄った野菜やルーが今夜の食材だ。本震から数時間後、朝ごはんとして出したおにぎりは300個。70数人の児童に食の楽しみを提供してきた給食室はいま、地元の数百人の命を支えている。 西原村は、阿蘇外輪山の西側に位置し、人口約7000人。河原小がある地区は村役場からも離れた山間部にあり、西南の役では薩軍をかくまった集落が官軍に焼き払われたという話も伝わる。 主産業の農業を守る人々は主に米とサツマイモをつくる一方、約20キロ離れた熊本市に通勤する若い世代も多く、美しい農村風景を兼ね備えたベッドタウンでもある。 みんなが寝静まった、あの夜。ぐおーという地鳴りがしたとたん、二度の激しい揺れに襲われた。「わっさわっさと、縦揺れ、横揺れでもう……。家がつぶるうと思った」と、ある60歳代の男性は身をすくめて語る。 「逃げなくては」。人々はまず、車を道路へ出した。そして、ヘッドライトの光は平地に立つ小学校に向かった。学校になんとかたどり着いたものの、倒れてきたタンスや割れたガラスで負傷し、血を流す人、気分が悪くなる人も多かった。 「組織を作って、まずは光と救護室を確保しなくては、と思った」。現在、避難所を総括する堀田直孝さんはリーダーを買って出た。
地区で用意していた職業名簿
地区では、世帯ごとに名前や生年月日などとともに職業を記した名簿がある。「看護師」「役場勤務」「自衛隊」……。職業ごとに得意分野を生かしてもらえれば、自分たちで避難所での「役割」を十分、分担できる、と考えた。 毎年の防災訓練で学んだ知識も役立った。地区は活断層に近く、仮に大地震が起きた場合は、役場からの道も分断され、孤立すると考えてきた。「少なくとも3日間は自分たちで生き延びなければ」。 発電機を持つ人には、なんとか壊れた家から持ち出すようお願いし、数人は学校校舎の保健室の外側から窓ガラスを割り、中に入った。ベッドや、救護セットを運び出し、通常は学童保育で使われている体育館内のミーティングルームに救護室を設置。発電機8台と、工務店からは投光器も持ち込まれた。 また、看護師や介護の業務に従事する女性7、8人が救護班を結成。タオルに「救護」と書いた「腕章」を腕に巻き、治療が始まった。病院での介護職で働く女性(60)も手を挙げた。「傷ついた人を応急措置して、翌日、病院に搬送された人もいた。ある人は、頭を10数針縫ったと後で聞いて、早めに処置して本当に良かったと思った」と話す。 救護の次に必要なものは、食事だ。学校のガスは止まっていた。ある家庭のプロパンガスのボンベを取り外し、持ち込んだ。給食室に保管されていた米を炊き、最初にできたおにぎりは300個。対して、避難してくる住民の数は膨れ上がり、少なくとも700人以上に及んだ。おにぎりを分け合うことになった。ある母親は「1個のおにぎりを家族で4等分した。あんな経験は初めて。食事への不安も募ったが、その温かさに励まされた」と振り返る。