署名活動に区長宅への訪問陳情。「三崎町」という名を住民の手で守るも歴史は繰り返され…<旧町名>でたどる千代田区の歴史
◆三崎町、猿楽町 <三崎町> 「違法ならば私は辞める」昭和41年11月第14回住居表示審議会、遠山区長の答弁です。この日の審議会で、神田三崎(かんだみさき)町を西神田に変更する第3回区議会の決議を覆し「三崎町」とする区長提案が出されたのです。 当時、三崎町では何が起きていたのでしょうか。 昭和37年施行の住居表示法に基づく町名変更。千代田区でも各町会による新町名案策定が始まります。 三崎町会では新町名案に対する住民アンケートを行います。候補は三崎町・水道橋・西神田。住民の意向は294票・49票・32票と、圧倒的に三崎町支持。 ところが町会役員会の決定は西神田だったのです。よりによって最下位の西神田、しかもそれが住民の合意として審議会・区議会で満場一致決議。憤慨した三崎町青年団による三崎町存続運動が始まります。 署名活動に区長宅への訪問陳情等、世論を巻き込んだクーデターの結果が冒頭の区長提案です。三崎町は住民の手で守られました。 そして時は流れ平成16年、歴史はくり返す。 <猿楽町> 平成16年、区長へある要望書が提出されます。 「三崎町並びに猿楽(さるがく)町の住居表示における神田の冠称復活に関する要望書」。 そう、あの三崎町が隣の猿楽町と共に昭和42年に消滅した旧町名の復活を求めているのです。 あれ? 三崎町は存続運動で守られたはずでは。 実は三崎町民の本来の希望は「神田三崎町」存続だったのです。 しかし、当時千代田区からは各町会に対し「新町名は神田**にはするなよ! 絶対にするなよ!」的な前フリもとい方針が示されていたため、神田冠称を諦めた経緯がありました。 今回の町名復活運動では、町内の事業者を中心とした反対派が署名や要望を行ったため長期化の様相を呈していましたが、平成26年区議会で決議され、平成30年1月1日に無事神田三崎町と神田猿楽町が復活を遂げました。 念願成就の旧町名復活。 前夜はカウントダウンイベントで大いに盛り上がるはずと期待して12月31日に現地へ赴きました。ただの静かな年末でした。現場からは以上です。
【関連記事】
- 相鉄新横浜線開通で存在感を高めた「相模鉄道」。<砂利輸送からの転換>という異色の経歴、東急を手本にするような施策に取り組んできたその歴史
- なぜ「京急電鉄」沿線住民の<愛線心>はこれほど高いのか。美しい塗色、走りのよさ、サービス…<鉄道事業そのものへの愛>が生まれる背景
- 「沿線格差」の頂点!?路線が長くもなく観光地もない東急電鉄が「セレブ路線」として扱われるようになった背景とは…戦前から貫かれる<東急グループの基本戦略>
- 創業期から沿線開発に熱心でビジネス意識に富んだ「小田急電鉄」。沿線環境の豊かさに加えて、箱根観光の楽しさも活動の重要な要素に
- いっけん地味?でもあなどれない実力「京王電鉄」。雰囲気の違う系統が、同じ沿線になった理由とは…その歴史を太平洋戦争まで遡る