「偽善って言ってもらって大丈夫」やす子が信頼される理由 SNS時代に光る純真さと、テレビ業界の脆弱さ
『24時間テレビ』(日本テレビ系)でチャリティーランナーを務めるなど、今もっとも忙しい日々を送っているであろうピン芸人のやす子。彼女が支持される理由とは? これまでの道筋と発言などから、やす子が視聴者から信頼される理由と、ブレークによって感じるテレビ業界の現状について考える。(ライター・鈴木旭) 【写真】広瀬すずの肩を抱き餃子を食べるやす子の姿
偽善って言ってもらって大丈夫
「好きなだけ偽善って言ってもらって大丈夫ですね。むしろ批判されることも注目されることなので、そこすらも活用させていただいて、自分の思いと養護施設のことをしっかり伝えていきたい」 8月31日から放送されている『24時間テレビ47 愛は地球を救うのか?』の制作発表記者会見で、チャリティーランナーを務めるやす子はこう語った。番組全体の募金と切り分け、チャリティーマラソンで集まったお金を全国の児童養護施設に当てる「全国の児童養護施設に募金マラソン」を個別に新設したのも彼女の発案だ。 2歳の頃に両親が離婚し、やす子は母親に育てられた。学校の水道水をペットボトルに汲んで食器を洗い、洗濯機がないため手で体操服を洗ったりするなど、経済的に苦しい生活を送っていたという。 学校生活は楽しかったが、とくに中学時代は遠足の費用を教師に前借りするほど困窮。高校時代に児童養護施設に入ってから、“3食食べられる世界”に幸せを感じた。今回の「募金マラソン」への挑戦は、“その恩返しがしたい”という思いが強く込められているそうだ。 高校卒業後、地元・山口県にある自衛隊宇部地域事務所を訪れたのは部活の先生に「自衛隊入ったら?」と勧められたからだった。断り方を知らなかったやす子は、生きるために衣食住がついてくる自衛隊に入った。 先輩の1人は、携帯電話の保証人になってくれた。それまで内気でネガティブだったやす子に一筋の光が差したという。
「おもしろ荘」以前のやす子
自衛官として働いた2年間は、テレビを見る暇もなかった。そのため、お笑い事情を知る由もない。しかし、ある日思い立って自衛隊を辞めたことで運命が変わる。山口から上京し、清掃会社に就職すると、当時千葉に住んでいた友人に「漫才をしてくれない?」と頼まれた。2019年9月のことだ。 自称“イエスマン”のやす子は、その誘いを断れず手伝うことに。現事務所・SMA(ソニー・ミュージックアーティスツ)のライブ当日、その友人が現れなかったことから急遽漫才からピンネタに変えて1人で舞台に立った。最後のライブになると思っていたが、観客投票で2位になり、その日のうちに芸人仲間ができたことで辞められなくなった。 苦手な習い事に通うようにズルズルと芸人を続ける中、手伝いで参加したハリウッドザコシショウの単独ライブを観て「芸人ってカッコいいんだ」と意識が変わった。 若手の登竜門となっている『ぐるナイ おもしろ荘』(日本テレビ系。2021年元日放送)で3位となって注目を浴び、その後は『サンデー・ジャポン』(TBS系)のリポーターやネタ番組をはじめ、バラエティーに引っ張りだことなった。 2021年5月放送の『そろそろ にちようチャップン』(テレビ東京系・現『ぴったり にちようチャップリン』)では、定番のフリップを使った自衛隊ネタでセリフを飛ばしてグダグダになると子どものように泣き出し、ネタ終わりに「この後やるギャグも考えたのにぃ~。もう負け、負け!」と感情をむき出しに。これを見守っていた番組MCの内村光良が「私、家に帰って子どもに会いたくなりました」と口にしていたのが印象深い。 また、今年の『27時間テレビ』(フジテレビ系)では、『さんまのお笑い向上委員会』のコーナーで登場し、2人でユニットを組んで賞レースに臨んだこともある事務所の先輩・野田ちゃんに対して「20年も後輩なのにカフェに行ったら、自分が全部お金も払うんですよ」と不満を爆発。さらに、野田ちゃんが持ちネタを披露すると、「こいつ、このネタ5年やっているけど、1回もウケたことねぇな!」と毒づき、スタジオを沸かせた。 この3年ほどで、やす子は確実にバラエティー対応が向上しているように見える。求められているものに全力で応えようとするストイックな姿勢は、自衛隊での経験で培われたものかもしれない。昨年11月に放送の『おしゃれクリップ』(日本テレビ系)の中で、やす子はこう語っている。 「(筆者注:自衛隊では)朝にみんなで10km走るんですよ。その後になぜか自由時間に自分だけまた10km走って筋トレをするっていう、ものすごいマジメな人間だったんですよ。(中略)稲井士長っていう先輩の方がいらっしゃって、その人が本当に自分のことを厳しくも優しく支えてくださって、その人のおかげと、あとやっぱり“認められたい”っていう気持ちができて、そこから努力したらけっこう認められるようになった」