『古事記』と『日本書紀』で書かれている時代が異なるのはなぜ?【古代史ミステリー】─『古事記』は推古朝、『日本書紀』は持統朝まで─
『古事記』と『日本書紀』は同じ時代に編纂されたと考えられてきた。しかし、内容も異なれば、書かれている時代も異なるようだ。 ■壬申の乱が編纂に影響を与えた可能性 『古事記』は推古天皇の時代までが叙述の対象となっている。推古天皇は推古元年(592)から36年(628)まで皇位にあり、6世紀の末から7世紀の初めにかけての女帝ということになる。『古事記』の成立が和銅5年(712)、すなわち8世紀のはじめであることから数えて、推古天皇の崩御から『古事記』の完成までは84年しか経過していない。1世代を30年とすると3世代も経っていないといえる。 古代人と現代人の時間感覚を同一に考えるのは危険であるが、古代人にとっても84年という年数は、遠い過去とはいえないであろう。『古事記』の推古天皇の段をみると、天皇の名称、都、統治年数、崩御年、陵名が列挙されているのみで具体的な伝承は記されていない。そこには当然のことながら、聖徳太子も蘇我馬子も登場しないのだ。これらは、省略したという理由では説明のつかないことである。 それでは、なぜこのような短い記述で済まされているのかというと、わざわざ記さなくても、当時の『古事記』を読む階層には理解されていたからと考えるのが妥当ではなかろうか。 一方、『日本書紀』の場合、最後の巻は持統天皇となっている。持統天皇は、大化元年(645)から大宝2年(702)まで生存した女性で、このうち朱鳥5年(690)から12年まで天皇であった。『日本書紀』が成立した養老4年(720)と比較すると、持統天皇が崩御した年との差はわずか23年しかない。 それにもかかわらず、通常は1巻の天皇紀を天武天皇は2巻(うち1巻は壬申の乱に終始)を占め、持統天皇も分量的に少なくない。これは、壬申の乱はあくまで正義の戦いであり、天武天皇・持統天皇の2代は、正統な天皇による統治であるという点を強調したい意図がすけてみえよう。藤原不比等が藤原鎌足の子であるのにもかかわらず、青年期までの姿が不明であり、持統朝あたりから急速に頭角を現わすことも、『日本書紀』の編纂に影響を与えているのかもしれない。 監修・文/瀧音能之 歴史人2024年4月号「古事記と日本書紀」より
歴史人編集部