軍国主義の元凶「参謀本部」の廃止を唱えた直言居士がたどった末路
原敬の感想
原は一読して思った。中国問題は置いておくとして、農商務省の分割は、政治家や役人の役職が増える話だから問題あるまい。しかし、参謀本部や文部省の廃止の話は唐突だし非現実的だし抵抗勢力が多すぎる。 原は田中義一に冊子を手渡すと、立ち上がって諭すかのごとく是清に話した。 「高橋君、これを発表したとしても、現実には何も行われずいたずらに反対者をつくるだけで、国家に何の利益もなしだ」
山県有朋の意外な反応
それから10日ほどして、田中が原に報告した。 「どうやら参謀総長の上原勇作が高橋の『内外国策私見』を読んだらしい」 だとすれば、親分の山県有朋もすでに読んでいるということになる。 「僕は配るなといったじゃないか」 怒る原を制止して田中は続けた。 「それであれば、隠していると思われるのも困るから、さっそく山県のところへ行って参謀本部廃止論の冊子があることを報告してきました」 田中は機転がきく。 「で、どうだった」 「山県さんは少々興奮しましたが、私はシベリア出兵で参謀本部が我を通していれば、こんなことは反動として起こることだから、大いに前途を考慮してその弊を修正しながらやっていきましょうと申し上げました」 で、山県さんはと原は聞く。 「実に同感だとおっしゃっていました」 山県は参謀本部廃止論は不快だが、参謀本部のやり方にも不満を持っていたのだ。
後年になるが、昭和11(1936)年の二・二六事件で、是清が暗殺されることになる原因の一つが、この時の参謀本部廃止論だった。軍部の暴走は十数年して、是清の命を奪うことになったのである。 ※本記事は、板谷敏彦『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯(下)』(新潮社)の一部を再編集して作成したものです。
デイリー新潮編集部
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