軍国主義の元凶「参謀本部」の廃止を唱えた直言居士がたどった末路
日本銀行総裁や総理大臣を歴任した財政家・高橋是清(1853~1936)は、国の財政の4割をも占める軍事費の増大に悩まされた。予算を要求する軍部のよりどころとなったのが、参謀本部が主張する「統帥権の干犯」。天皇の軍事統帥権は天皇本人と参謀本部以外、誰も犯すことができないというものだが、彼らは気に食わないことが起こると、この伝家の宝刀を振り回して、歴代の内閣を不安定なものにし、ときには内閣を崩壊させした。 【写真を見る】高橋是清が殺害された事件 〈当時の実際の写真〉
作家で金融史の専門家・板谷敏彦さんの新刊『国家の命運は金融にあり 高橋是清の生涯(下)』(新潮社)では、その専横をただすため、是清が勇気ある「参謀本部廃止論」を提案する様子が描かれている。同書から一部を再編集してお届けしよう。 ***
一気に書きあげられた政策提案
是清が原敬内閣の大蔵大臣になって約2年が経過した。1918年から始まったシベリア出兵において陸軍は、というよりも参謀本部は政府の方針に従わず、戦場での統帥権を盾に独断の行動を重ねていた。そのために欧米からは日本の領土的野心に対して疑惑の目をむけられ、拡大する戦費は、欧州大戦でせっかく蓄えた正貨を浪費して、大きな財政問題になりつつあった。
友人シフの死を通じて自身の老いと寿命を意識した是清は、今こそ政治家としてやるべきことがあると覚悟を決めた。是清は療養先の那須塩原で構想が固まりつつあった政策提案を、シフの死をきっかけに一気に書き上げると、早速印刷に回した。 タイトルは『内外国策私見』である。全部で400字詰め原稿用紙17~18枚分、引用を除けば6000字ほど、やや大きめの4号活字で、B5判だった。
原敬に意見を求める
大正9(1920)年10月15日、閣議が終了した後、是清はこの『内外国策私見』を一冊持ち首相の原敬に見せた。 「原君、これは私が療養中に我が国の将来を見据え、よく考えてまとめたものだ。 欧州大戦後の世界の中で、日本はどうあるべきか。私見ではあるがこれを要所に配布したいと思う。そこで、その前に君の意見を聞いておきたい」 原はこれを受け取ると、パラパラとページをめくった。原にすれば直言居士の是清が何かを書くこと自体が不安材料であった。 「今や我が国はパリ講和会議の結果五大強国の一つとなったが、国の歩みは困難を増している。日中問題、日米問題、さらにシベリア問題など国際問題が紛糾錯綜(さくそう)し実に容易ない状況である」 原は、冒頭のこの文章を見ると、椅子に深く腰掛け直して、ゆっくりと慎重に読むことにした。