私の謎 柄谷行人回想録:小説は終わったのか 戦後文学の最後から見たもの
柄谷行人さん(83)は、戦後長きにわたって国内外の批評・思想に大きな影響を与えてきた。柄谷行人はどこからやってきて、いかにして柄谷行人になったのか――。そのルーツから現在までを聞く連載の第21回。 【写真】1975年、「明るい革新都政をつくる会」の記者会見に参加した松本清張など
――1992年に盟友・中上健次、95年に妻・冥王まさ子という身近な作家が相次いで亡くなり、柄谷さんは「文学と縁が切れた」とおっしゃっていました(第20回参照)。特に中上の死については、近代文学の終焉に関わる一つの区切りとして象徴的に語ってこられたと思います。 柄谷 僕は、70年代の終わりには文学の終わりを意識するようになっていた。それが否定できないほどにはっきりしたのが90年代だった、そういうことなんじゃないか。
積極的に話したかったわけではなく
――少し先のことになりますが、2003年には「近代文学の終り」と題した講演をするに至りますね。 柄谷 実は、あの話は、僕が自分から言い出したことではないんです。身近な人たちには、もう文学のことは書かない、とか、文学はもうだめだ、とか言ってはいましたけどね。それを聞いた編集者が、そのことを話してほしいとインタビューを企画した。僕としては、あまり気乗りがしなかったんですよ。文学が終わったという話は、積極的に宣伝したいことじゃなかったから。静かに文学から離れられれば、それが一番だった。 だけど、当時は僕に文学を牽引していってほしいと期待していた人が多かった。だから、今後もう文学についての原稿は書きませんよ、と知らせておく必要はあるかな、と思ったんです。だけど、結果的に、文壇に宣戦布告でもしたかのように受け止められてしまった。それで、近代文学の終わりについて、まとまった話をせざるをえなくなって……。そんないきさつだったと思います。 《柄谷さんは、「近代文学の終り」で、近代的な国民国家の成立には、文学、とりわけ近代小説が重要な役割を果たしたことを確認しつつ、その役割は終えたと指摘した。社会階層などでバラバラだった人々を、“想像の共同体”としての国民(ネーション)としてつなぎ合わせる過程で、共感を生み出す小説が基盤となった。娯楽として軽視されていた小説の地位は向上したが、代わりに知的・道徳的な負荷がかかることになった。近代小説は、虚構にすぎないが、より真実らしさを追い求めてリアリズムを課題とした。しかし、国民国家が世界各地に広がったこと、さらに映画などよりリアリティーを喚起しやすい形式が発達したことなどが重なって、特権的な地位を失っていった、とみる》 ――当然というべきか、一部の文学者は反発しました。韓国でも話題になったそうです。 柄谷 近代文学―小説ですね―が決定的な意味を持った時代は終わった。だけどそれは、文学がなくなるとか、文学にはもう意味がない、ということではないんですよ。才能のある作家は常に出てくるものだ、とか、文学を読む人は少数であってもいなくなることはない、とかいった反論がありましたが、それと近代文学の終わりは矛盾しないんです。文学の終わりには、いろいろな要素があって、個々の作家だけの問題ではないから。たとえば、テクノロジーの問題があります。リアリズムという意味では、映画やテレビの映像のほうが文章よりも有利ですよ。小説は書く側にも読む側にも想像力が求められるから、負荷が大きい。その点、視覚や聴覚に訴える映像は楽なんです。 ――確かに、日本で一般家庭までテレビが普及したのは70年代でした。 柄谷 小説の凋落を促した大きな要因が、テレビをはじめとする視覚的メディアだというのは、よく言われていますね。 ――テクノロジーということで考えてみれば、近代文学そのものが、文字の複製技術である活版印刷の発展があって広がったんですよね。メディアの形式に関していえば、主役が紙からテレビになったのが70年代から90年代だとすれば、さらにインターネットにとってかわられてきたのが、この20年だったという気がします。 柄谷 ネットが出てきて変わった面も大きいと思います。実際 、2000年代以降には、古典的な文学を読む人はほとんどいなくなったんじゃないですか。 ――そうですね。実感としても、かなり限られた人になってきたと思います。 柄谷 70年代には、まだまだ文学は読まれていたんですよ。そして、多くの人たちは文学は永遠だと思っていた。そういうときには、文学が終わりかけているという洞察には意味があった。だけど、今の人たちは、文学の永遠を信じるも信じないも、文学を読んだことすらない、という感じでしょう。そういう人たちに向かって、文学の終わりだなんて言ってもしょうがない。