幻の原爆投下「第1目標」地点にいた祖父。「もし死んでいたら、私もいなかったかも…」 被爆地でない場所で、36歳女性が語り部になった理由
福岡県苅田町の和田由佳里(わだ・ゆかり)さん(36)は6月、福岡市内の中学校で生徒たちを前に、原爆体験者の経験談を語り始めた。「腕がちぎれ、足の肉がめくれて骨がむき出しに…」。蒸した空気で満ちた体育館が静まりかえる。 【写真】核脅威の現実直視、廃絶を訴え 長崎原爆79年で平和祈念式典
和田さんは体験を語り継ぐ「伝承者」だ。活動を始めたきっかけは、祖父が戦前、福岡・小倉にあった兵器工場で働いていたと知ったこと。実は小倉は、1945年8月9日に長崎に投下された原爆の第1目標になっていた。「もしかしたら祖父も死んでいたかもしれない」―。被爆地でない場所で、原爆を語り継ごうとする人たちの姿を見つめる。(共同通信=石原聡美) ▽もしあの日 和田さんの祖父は終戦まで、今の北九州市にある小倉陸軍造兵廠で働いていた。そこは、広さ約58万3千平方メートルを有する西日本最大級の兵器工場。学徒動員を含め、多い時には約4万人が働き、小倉は軍都として栄えた。 米軍は、8月9日の第1目標を小倉に定めていた。8月9日午前9時44分、プルトニウムを燃料にした「ファットマン」と呼ばれる原子爆弾を載せた爆撃機B29が小倉に到着した。 しかし、小倉上空は煙による雲ともやが立ちこめ、視界不良。前日、隣接する八幡市(現北九州市)で大空襲があったからだとされる。米軍は小倉上空で50分間を費やした後、第2目標の長崎に向かった。
午前11時2分、長崎に投下された原爆が炸裂した。1945年末までの死者は推定約7万人に上る。 和田さんは2010年に祖父が亡くなった後、祖父が小倉陸軍造兵廠で働いていたと知った。「もしあの日、小倉の空が晴れていたら、祖父は原爆で死んでいたかもしれない。そうすると、私もいなかったかもしれない」 戦争も原爆も経験していない。それでも「平和を考えるきっかけを作る時間になれば」と、語り継ぐ活動を始めた。 ▽「伝承者」デビュー 今年6月、福岡市立中学校の体育館。湿度が高く、蒸した空気が満ちていた。体育座りをして待つ中学2年の生徒は約140人。中学校では毎年、1945年6月19日にあった福岡大空襲の日付にあわせ、戦争体験や被爆体験を聞く時間が設けられている。 「片腕のちぎれた女の人、両足の肉がめくれて骨がむき出しになっている男の人…」。和田さんがやや緊張した面持ちで語る原爆投下後の悲惨な景色に、生徒たちは息をのみ、体育館はしんと静まりかえった。