「学問のすすめ」だけじゃない。福沢諭吉が説いた「分散投資のすすめ」
生きた経済社会のことは軽々に断定できない難しさがあるが、福沢は物価が熱し過ぎているように思えてならない。明治26年(1893年)7月27日のことだ。 「株の売買もすでに狂し、狂熱の病名を下すべきものか、いまだ然らずして、なお一層のはなはだしきに至り、初めて破裂すべきや、あるいは徐々に退き、自ら調理して無事太平に帰すべきや」-判断に苦しみながらも頂点に近いことを警告する。 ところで福沢が懸念した日清戦争バブル景気がはじけるのはこの4年後、明治30年(1897年)のことだった。結果論だが、福沢の警告は少々早すぎた。相場予測ほど難しいものはない。=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)>
福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち 1835~1901)の横顔 天保5年中津藩士に生まれ、緒方洪庵に学び、江戸に出て蘭学塾を開き、啓蒙思想家、慶應義塾の創設者。慶応3年江戸幕府の遺外使節の随員として欧米を訪れ、新知識を吸収して「西洋事情」を世に問い、ベストセラーになった。蘭学塾を慶應義塾と名付け『学問のすすめ』など啓蒙書を刊行。晩年には「脱亜論」にみられるように富国強兵策を支持した。