初代東京都知事は利根川沿いにディズニーをつくろうとしていた!? 戦後東京の知事を3期務めた男の挑戦【もうすぐ選挙!都知事の歴史】
7月7日の東京都知事選を目前にして、候補者たちが熱戦を繰り広げている。日本の首都の長を決めるとあって、全国的に注目されている選挙だ。では初の東京都知事は一体誰で、どのような人物だったのだろうか? 明治維新後の東京の変遷とともにご紹介する。 ■江戸から東京へ 東京都の成り立ちと知事誕生 まず東京の歴史をざっと振り返ろう。1867年に15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行い、翌1868年に王政復古の大号令が出されたことで、江戸幕府はその存在意義を失った。同年5月には江戸城が無血開城され、江戸は新政府軍の支配下に入ることになったのである。 新政府はまず「江戸府」を設置し、同年9月には「東亰(後に東京)」と改称。そして「東京府」が誕生する。その後、廃藩置県や群区町村編制法、市町村制施行などを経て、1889年に「東京市」が成立した。1893年に多摩地域(西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡)が神奈川から東京府に移管されたことで、ほぼ現在の東京都の区域が確定した。 「東京都」が誕生したのは、第二次世界大戦中の1943年7月のことである。7月1日付で「東京都制」が施行され、これに伴って東京府・東京市は廃止された。初代東京都長官には、大達茂雄氏が就任している。彼の仕事は、戦時下にある東京で学童疎開や建物疎開を推進するなどしてできるだけ被害を抑えることだった。 終戦後の1947年4月、新制度に基づく首長と議員の選挙で安井誠一郎氏が公選都長官に就任。そして、同年5月に地方自治法が施行されたことで、東京都長官からそのまま初代東京都知事となった。これをもって安井氏が「東京都知事」の肩書を持つ初めての人物となったのである。安井氏の知事としての仕事に求められたのは、言うまでもなく焼け野原となった東京の復興だった。 安井氏は1947年5月3日~1949年4月4日までの任期を終えた後に再選し、1949年5月3日~1955年3月28日の2期を終え、さらに再選して1959年4月18日まで3期に渡って都知事を務めている(全国知事会「歴代公選知事名簿」より)。 戦後復興が進むなか、安井氏の次の目標は政府と密接に連携した東京の都市開発に発展していく。3選をかけた1955年の知事選では選挙公約として「グレーター東京と首都圏整備」を掲げた。要するに戦後復興によって人口が増え続ける東京において、秩序のある都市拡大計画を展開して人口の過密を抑えつつ、首都圏の建設と発展のために具体的な政策を打ち出そうというものである。結果はともかくとして、安井氏は再選した後に政府に積極的に働きかけ、1956年4月に「首都圏整備法」を成立させるのに一役買った。 3期にわたって知事を務めた安井氏だが、じつはとある開発計画に携わっていた。それが「手賀沼ディズニーランド計画」だ。事業計画には東京都知事の職を離れた後の安井氏のほか、経済界からそうそうたる人達が名を連ねた。 埋め立て工事も着工し、地元はすっかり大型テーマパーク建設と観光産業の盛り上がりに期待を寄せていた。「広報あびこ」昭和36年1月1日号では「健全なる観光娯楽のデズニーランド式施設を計画、用地買収と沼沿岸十数万坪の埋め立て計画が進められつつあります」と大々的に報じられている。このまま事業は順調にまとまるかと思われていたが、最終的に手賀沼の汚染や財務状況の悪化な、ど様々な要因が重なって計画は実現しなかった。 安井氏は知事勇退後、1962年1月に東京都の名誉都民の称号を授与されている。戦後の東京都復興と発展を支え、あらゆる局面でリーダーシップを発揮した人生だった。 <参考> ■公益財団法人 東京都都市づくり公社「東京の都市づくり通史」 ■全国知事会「歴代公選知事名簿」 ■多賀工業会千葉県支部「手賀沼周辺の歴史と現在」
歴史人編集部