松下幸之助が、高額で買った「ラジオの特許を無償で公開」した理由
ラジオの特許を無償で公開
昭和初期のことである。"特許魔"といわれる発明家がいて、アメリカの特許を先に読み取っては日本で登録し、それを売るというようなことをしていた。ラジオの重要部分の特許権もその人が所有し、高周波回路で多極管を使用するラジオは、すべてこの特許に抵触するため、各メーカーはラジオの設計に大きな支障を受け、業界の発展がはなはだしく阻害されていた。 松下電器も昭和6(1931)年にラジオを開発し、7年になって、いよいよこれから大いに生産販売しようとしたときに、この特許に抵触した。事態を憂慮し、わが国ラジオ業界発展のために実に遺憾であると考えた幸之助は、ついに意を決してその発明家のところへ出かけ、「特許を売ってほしい」と申し出た。 発明家は30歳代半ばくらい、少し傲慢な感じの人であった。その態度に怒りを覚えつつも、幸之助は、売る気のまったくないその発明家と我慢強く交渉し、結局2万5000円という大金で買い取った。それは当時の松下電器の規模からすれば、法外な金額であった。 特許を買い取った翌日、幸之助は、それを無償公開する旨を新聞で発表した。 "こういうものは業界みんなで使うべきもの。業界の発展のために使われるべきだ"という考えからの行為であった。この特許の公開は、業界にたいへんな驚きと賞賛をもって迎えられた。"業界始まって以来の大ホームランである"と、業界各紙で、壮挙、美挙として賞賛の言葉が与えられた他、ラジオ業界全体の発展に大きな貢献をしたとして、各方面から感謝状や牌が贈られた。
初めての東京出張
商売を始めてまもないころ、幸之助は当時つくっていた二灯用差し込みプラグを東京でも売りたいと考えた。そこで、それまで一度も行ったことのない東京へ出かけ、地図を片手に一日中問屋をめぐり歩いた。初めて訪問する問屋で、大阪から持ってきた商品を見てもらう。 「いかがでしょうか。売っていただきたいのですが」 問屋は商品を手にし、それをためつすがめつじっくりと調べてから、幸之助の顔を見て言った。 「きみ、これはいくらで売るのかね」 「原価が20銭かかっていますので、25銭で買っていただきたいのです」 「25銭か。それなら別に高くはない。高くはないけれども、きみは東京で初めて売り出すのだろう。そうであれば、やはり少しは勉強しなければならないよ。23銭にしたまえ」 こう言われて幸之助は、"東京での販路をぜひ開拓したいし、初めて東京に売りに来たことでもある。だから、この要望にこたえよう"と思った。しかしつぎの瞬間、そうさせないものが心に働いて、こう答えていた。 「原価は20銭ですから、23銭にできないことはありません。しかし、ご主人、この商品は私を含めて従業員がほんとうに朝から晩まで熱心に働いてつくったものです。原価も決して高くついていません。むしろ世間一般に比べれば相当安いはずです。ですから、25銭という価格も決して高くはない、むしろ安いと思うのです。 もちろん、ご主人が見られて、この商品は値段が高いから売れないだろうと考えられるのであれば、それはしかたがありません。しかし、そうではなくて、これで売れると思われるのであれば、どうかこの値段でお買いあげください」 じっと聞いていた問屋の主人は、 「よしわかった、きみがそこまで考えているのなら、25銭で買うことにしよう。もちろんこの値段は高くはない。これで十分売れると思う」 と言って、持っていった商品を値引きなしの言い値で買ってくれた。
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