「老害と思われたくない」と必死になるのは「老害よりも害」だ…この国をダメにした「倒される側」になりたくない大人たち
社会の「方向感覚」が失われた
いま、世の中が停滞し閉塞しているのは「老害」のせいではない。むしろ逆だ。「老害」がいなくなったからだ。 「老害」がいなくなった代わりに「老害にすらなりきれない害」が溢れてしまったからだ。 本来なら堂々と胸を張って「超克されるべき権力者」をやるべき立場の者が、自分よりはるかに立場の弱い後進を「権力者」だと言い募り、自分は年もわきまえずに「権力者を倒す側」の戦列に参加するというペテンをやってのけているからこそ、社会には憎悪と分断が拡大している。本当は権力もなにも持っていない弱い立場の者を倒しても、時代は綴じられないし、社会は前に進まない。当たり前のことだ。 「老害」をやろうという気概を持つ者がいなくなったせいで、社会は方向感覚を失った。「前」がどこにあるのかわからなくなって、同じところをぐるぐると彷徨うようになった。
「ただしさ」に寄りかかるな
尊敬とか敬愛とか羨望とか、そういうまなざしを年老いていくにつれて得られなくなっていくことは、寂しく惜しいのだろう。いつまでも「善き人」として、あたたかい視線を向けられながらこの世を去りたいと願ってしまうのが人情なのだろう。 けれども、それは欲張りというものだ。 SNSのせいで、他人の評判がいままで以上に見えやすくなって「老害」をやることの負担が上昇しているのもあるだろう。「他人にどう思われようが、俺は俺だ」と胸を張って「老害」を貫き通そうと決意しても、SNSで「老害」をやっている他の人にリアルタイムで向けられている「この老害が!」という群衆からの罵詈雑言を見ると決心が鈍る。 むかしより「老害」をやるハードルは上がり、それに比例して、人びとは世間に向かって「ええかっこしい」をやる誘惑に抗えなくなっている。時代時代で移り行く「ただしさ」に寄りかかって、尊敬と善性を両手にもったまま逝きたい、そんな俗欲が抑えられなくなる。 だが、そんな人しかいなくなったから、世の中はだめになった。
御田寺 圭