「老害と思われたくない」と必死になるのは「老害よりも害」だ…この国をダメにした「倒される側」になりたくない大人たち
「死ぬまで若者でいたい」人びと
ところが最近は、「老害」ではなく「老害にすらなりきれない害」を撒き散らす者が後を絶たない。「老害にすらなりきれない害」とは、人生の最後の最後に「倒される役/超えられる役」がいよいよ自分にまわってきたとき、これを全力で拒否する者たちのことである。 その章のフィナーレを飾る敵として立ちはだかり、そうして敗れて道を譲る「悪役」をやる覚悟を持てず、最後の最後でどうしても口惜しくなって「やっぱり善い人と思われたまま逝きたい」という俗欲を捨てきれない人のことである。おのれが時代精神、社会の正道から「遅れた/逸れた」状態で世を去っていくことに未練たらたらの人である。 「老害」は先述したとおり、ある面では有害でも、他方では有益で不可欠である両面的な存在だが、「老害にすらなりきれない害」はそうではない。これにはマクロで見たときにも益がなく、本当に純粋に害しかない。いくら外形的にも内実的にも年老いていても、自分でそれを受け入れられず、時代感覚から取り残されていない、つねにアップデートされた「若者(反権力)」気分でいようとする。そのため、自分に回ってきた「倒される役」を拒否して、場合によっては若者たちを逆に「倒される役」にしてしまう。 これでは社会が前に進まなくなる。 「徳」を持ったまま世を去ろうとする欲張りで未練がましい人間こそが「老害にすらなりきれない害」を撒き散らし、社会に歪みを与え、前進どころか停滞させ、閉塞させていく。政治的ただしさによって塗り固められた、時代時代に“ウケ”の良い偽善を語り、そうしてなんの責任も果たさず「善い人」のまま死ぬために。 その点でいえば、石原慎太郎は立派に「老害」をやりきった最後の人物だったのかもしれない。言論人としても政治家としても毀誉褒貶がはげしくその評価は二分されたが、石原は「善い人と思われたまま死にたい」などと俗欲を欲したりはしなかった。褒められることばかりをしようとはせず、だれもが避けて通ろうとするような「嫌われ役」もあえて引き受ける度量があった。 石原慎太郎が政治の世界を去ったのは2014年のことだ。引退後の石原の動向について、おそらく、世間の人びとはほとんど知らなかったのではないだろうか。現役時代における歯に衣着せぬ言動を見るかぎり、政治引退後はそれこそテレビで「ご意見番」でもやりそうな勢いだったのに、公の場に姿を見せることすら稀になった。潮が引くように、すっと身を退いたのである。石原は歴史でいうところの「大御所」のポジションに座らなかった。第一線からは退いた風でしかし特権的な立場からあれこれと影響力を及ぼすようなことをせず、次の世代に託して去っていったのである。