「老害と思われたくない」と必死になるのは「老害よりも害」だ…この国をダメにした「倒される側」になりたくない大人たち
「老害化」を回避したがる日本人
ちかごろはメディアで「老害」というワードを目にする機会が増えた。もっとも「老害」という文字列は、よくよく見てみるとかなり攻撃的というか、ともすればそれを他人に向けるのはためらわれるほど品のない言葉である。しかし当の中高年層の間でも「時代についていけなくなり、周囲から有害な存在として見なされること」に対する危機感が高まっているせいか、令和の日本社会で「老害」という言葉はすっかり世の中に受け入れられてしまった。 【写真】50代ひきこもり息子と暮らす母親が、「ゴミ屋敷」で亡くなるまで 「老害にならないよう、肝に銘じなければ」 「周囲から老害だと思われないようにしなければ」 このように、中高年層では、老害化を回避しようとする意識が高まりつつある。 学ぶことをやめ、謙虚さをなくし、他者への思いやりを失えば、たちまち「老害」になってしまう――といった具合のナラティブとともに、「老害」にならぬよう戒める言説に共感が広がっている。 しかしながら、私は正直こうした意見にはあまり賛同できない。 なぜなら、年老いた者が「老害」になってはいけないとは思わないからだ。いや、それどころか、年老いた者はむしろ胸を張ってどんどん「老害」になるべきだ。
大人だけが果たせる役割がある
なぜ「老害」になることを恐れるべきではないのか。避けるべきではないのか。その理由は明確だ。すなわち「老害」は人間社会にとって必要不可欠な存在だからである。これをただ害悪だ迷惑だといって退けるのは、表層的で一面的なものの見方でしかない。 「老害」には大切な役割がある。それはなにか。最後の最後に、次世代によって「超えられる」という役割である。「老害」は次世代を担う者たちに相対する壁となり敵となり、そして最後には敗れて、ひとつの時代が綴じられていく。次世代から「老害」とされた者が乗り越えられることで、新しい時代がはじまっていく。老いた者たちがかつて見た夢の続きを、若き者が引き継いでいく。人の世の終点と起点をつなぐために、「老害」はこの世に必要なのである。 「老害」となった者は、周囲とくに若者たちから忌み嫌われがちだが、そのような厳しいまなざしに堪えながら、人の世に求められた「老害」の役割を全うする者は、本当はその点において尊さすらある。 「老害」が倒されたとき、ほとんどの人は惜しみはしない。「やっとアイツがいなくなったか」と快哉が叫ばれ、ともすればその亡骸には唾を吐きかけられるかもしれない。そんなひどい扱いを受けることが必至なのに「老害」をやる気概を持っている人に、私は密かに敬意を持っている。もっとも、「老害」をやろうとしているかれらを大っぴらに称賛してしまうと、かれらのせっかくの気概に水を差す無粋なネタばらしになってしまうので、黙っているのだが。 いずれにしても「老害」は、ひとつの時代を綴じ、新しい時代の幕開けを告げる大切なマイルストーンになる。かれらが敗れ、後からやってきた者にその道を譲る。そうして人間社会は前に進んでいく。斃れたかれらの亡骸はやがて土に還り、土壌を肥えさせ、そこからまた新しい技術や価値観や思想や文化や政治が生み出される。 ようやく「老害」を倒して自分たちの時代を歩み始める若者たちも、いつかは年老いていく。かれらにもいずれ「倒される役」をやる日がやってくる。いつか来るその役割を舞台で全うして、次の世代にバトンをつなぐ。この繰り返しのなかで、人の世は何千年、何万年も紡がれてきた。