音響問題で炎上のAdoはなぜここまでたたかれる? 「顔出し」という最強カードを切るタイミングはいつになるのか
小室哲哉も驚いた「見えなくても盛り上がる」ライブの意義 Adoのライブは「記憶よりも記録」型?
建て替え後の国立競技場でライブを行ったのは2022年の矢沢永吉さんだけだというが、矢沢さんはくまなく音響チェックをしていた、というエピソードがまことしやかにささやかれている。だからアーティストを名乗るのなら音響チェックをするのが当然で、今までの慣習や常識をバカにしてるからこうなるんだ、と言いたげな、Adoさんへの批判に使われている。 調べてみたが矢沢さんが「リハーサル時に音響や照明を確認」という情報はあるものの、どこまできめ細かくやっていたのかは分からないため、なんとも言えない。ただ、当時のライブ来場者の中にも、音響の不備を指摘する声はあったようだ。熱量の高さで知られる永ちゃんファンでさえ苦言を呈するのだから、歌手やスタッフの力量だけではどうにもならない構造上の問題が一番大きいのだろう。 そもそも、矢沢さんのライブと比べることがナンセンスかもしれない。Adoさんはアーティストではなく「歌い手」と自称し、顔出しをしないのも「歌い手」文化にのっとっているという。作詞作曲をするわけでもなく、与えられた曲を超絶技巧で歌いこなすパフォーマーであり、そこには表情管理や生身ゆえのアクシデントは不要だ。ものすごく雑に言うと、「太鼓の達人」のような音楽ゲームでの得点と同様の「記録」が問われているのであって、挑む本人のルックスやパーソナリティーがどう見えるかという「記憶」は二の次なのではないだろうか。 小室哲哉さんが爆笑問題のラジオにて、今回の騒動について「見えないのに盛り上がるんだ」と驚いていたが、それは「記録」より「記憶」型のライブをやってきたアーティストならではの意見だろう。もちろんAdoさんサイドも記憶に残るライブをしたい、という思いはあるだろうが、総じて受ける印象は「顔を出さずにどこまで大きなこと、新しいことがやれるのか」という記録更新志向である。技巧はすごいが心を打たないという批判は的外れで、むしろ技巧や演出のすごさで国内外の記録を塗り替えていくことに重きを置いているようにも思える。