オードリー・タンが子どもを「役に立たない人」に育てたいと言うワケ…人を「モノ扱い」してはいけない
「役立つ」ためだけに学ぶのではない
ここで改めて考えてみよう。私たちはなぜ学ぶのか? なぜ今の若者が学びのうえで挫折を味わうのか? 大きな理由の一つは、学びにおいて「役に立つ」ことに重点が置かれすぎていることだ。「役に立つ」ことの何がいけないのか。これまでの社会では、「役に立つ」ことはすばらしいことだった。役に立つ技術を身につければ、社会の需要に応じてそれを役立て、一生食べていくことができた。 しかし、テクノロジーの時代においては、「役に立つ」ことの意義が疑わしくなっている。テクノロジーの進化はめざましく、これまで人の手で行われていた作業がどんどん機械に置き換えられているからだ。 荘子の話にあるように、人はモノに対して「役に立つ」ことを求める。使っていた金槌が壊れたら「使い物にならなくなった」と言うだろう。求められる機能を失ってしまえば、「役に立たない金槌」と呼ばれる。コンピューターが特定の用途を与えられたとき、それ以外の機能は備わっていないものと認識される。 金槌やコンピューターと同じような考えで人を定義するのは、人を「モノ扱い」していることになる。 人が「モノ」のように扱われ、特定の機能のみで判断される場面は多い。その機能が時代の変化によって淘汰されたり、自動化されたりすれば、大きな挫折を味わうことになる。学びの動機が自分のなかからわき上がる興味ではなく、外から押しつけられたものだからだ。 学生でも社会人でも、何かを学ぶ途中で「壁にぶつかった」と感じる人が増えているのは、これが理由だ。苦労して技術を身につけても、明日にはより効率的な機械に取って代わられるかもしれないからだ。
子どもを「役に立たない人」に育てるには
では、なぜ「役に立たない人」になるべきなのか? 子どもを「役に立たない人」に育てるにはどうしたらいいのか? 「十二年国民基本教育課程」(台湾の教育課程)を担う課程発展委員会(課発会)の委員を務めたオードリーは、次のように指摘する。 旧来の教育には決まったシステムがあり、学習者はその教育システムのなかで学び、システムが求める水準に達する必要があった。外部の力により「学ばされる」状態とも言える。何年も学び続けたのにその業界が消滅したり自動化されたりして、挫折を味わうことになりかねない。 課発会は、学生たちの学習に対する興味をいかに引き出すかについて検討した。最終的に、最も重要なのは「自発性」であり、次いで「コミュニケーション」や「共好(ゴンハオ:ネイティブアメリカンの言葉で「共同で仕事をする」という意味を持つ「Gung Ho」を中国語に音訳したもの)」だと結論づけた。 「自発性」が最重要である理由は、学生を教育システムの枠組みに縛りつけることが教育ではないからだ。教育課程綱要の策定にあたっては、学生たちの興味を引き出す方法が重要な課題となった。 たとえば、メディア関連課程で学ぶなら、ニュースを理解できるようになるだけではなく、素材を使った作品作りなど、メディア人材としての素養を身につけられること。データサイエンス分野なら、ビッグデータの読み方を学ぶだけでなく、学生自らデータを取れるようになること。 ある事柄を学ぶときに、特定の用途を想定することで学びの幅を狭めてはならない。法律を学ぶ目的は「役に立つ弁護士になるため」だけではないし、医学を学ぶ目的も「役に立つ医師になるため」だけではない。 現在、台湾の教育課程では小学校の工作や音楽、美術といった芸術系の科目をまとめて「生活課程」としている。教師には「指導する」という概念を捨て、児童に寄り添うことを求めている。 児童一人ひとりの話に耳を傾け学習状況を観察する。子ども自身が何に興味を持っているかを堂々と表明することを奨励し、賞賛する。決して点数をつけて児童の優劣を決めることはしない。 必要なのは、子どもたちが夢中になれることを見つける手助けをすることだ。やがて学びのなかで自分の興味と社会の需要とを結びつけ、共通の価値を見いだせるようになる。そうなれば社会に親しみが持てるようになり、反社会的な人間にはならない。 親たちもまた、「指導する」という概念を捨てる必要がある。「子どもに模範解答を用意してやるよりも、子どもと討論するほうがずっといいのです」