なぜこんな国になった…日馬富士と忠臣蔵の共通項・日本社会「公」と「家」
「公の論理」と「家の論理」
荻生徂徠は尊敬すべき学者であるが、彼は赤穂浪士の行為に対して「公論・私論」という言葉を使っている。浪士たちの行為は私論としては正しくても、公論としては正しくないというのだ。吉宗の政治を補佐する学者として、徳川幕府による社会秩序を「公」としたのである。 正論であろう。とはいえ、浪士の行為を「私」と断定することにはやや違和感がある。朝廷秩序を「公」とすれば、徳川家も「私」であり、それぞれの武士を「私」とすれば、赤穂藩も「公」ではないか。建築からの文化論を書いてきた筆者は、日本は大小の「家」という複合的な枠組みで構成された「家社会」であるととらえている(拙著『家とやど』朝日新聞社刊参照)。そう考えれば「公」と「私」は、より「大きな家」と、より「小さな家」という相対論に放り込まれるのだ。 西欧では「個人」と「神」の関係が強い分だけ、政治的な「公」にも普遍的な思想的な価値が付与されやすい。しかしそれも宗派となれば、家の論理と同様、主導権争いが生まれ、戦争とテロの原因となる。 現代日本において、マスコミ特にテレビは一般家庭を対象とした放送という「公器」であり、司法は法律による「公」の判定機関であり、審議会もまた「公の論理」で協会に進言する立場である。現在の横綱審議委員会長は大手新聞社の会長であり、テレビによく登場する元協会外部理事は東京地検特捜部長であった。彼らは日本社会の「公」を代表する人々で、今回の件を暴行障害として単純化しようとするのは当然のことだ。 その意味で「きわめて厳しい処分」という方針は間違っていない。「曖昧にすれば社会的な暴力是認につながる」というのも、徂徠と同様、まことに正しい判断である。 しかし人々の心には、それとは別の「家の論理」が存在する。 誰しも、家庭内の問題を公的な機関に委ねることには抵抗があり、会社や省庁の内部告発にも大きな抵抗がある。そもそも一般庶民は、警察や裁判そのものに対する抵抗が強い。冷たい法文による「公の論理」より、温かい人間の匂いがする「家の論理」に従う方が、人情の自然なのだ。かつて「家」とは藩であったが、今では家庭であるとともに、企業や、省庁であろう。 明治政府は、西欧にならった近代国家を「公」として、その内部の「小さな家」を「私」として否定した。徂徠が江戸幕府を「公」として、各藩の「家」を「私」としたように。 だが、その新政府に弓を引いて賊軍の首領となった西郷隆盛は、公的には極悪人であるが、民衆からは、特に鹿児島では、今でも神のように崇められている。司馬遼太郎は「日本には西郷教というものがある」という。日本人の心には現在も「家の論理」が根強いのだ。 相撲界は「家=相撲部屋」の集合であり、協会はその寄り合いに過ぎない。力士たちは何よりも「家」の秩序を重んじ「仲間」を重んじ、そこに「公」の概念は希薄である。モンゴルという遠い国から来た若者たちが集まって励まし合いながら日本社会に溶け込もうとするところには、もう一つの強い「家」が生まれる。 闘う集団の世界における「家の論理」を否定することは難しい。ラグビーなどに顕著なように、試合では激しく闘いながらも終われば親しい仲間、というのがスポーツの本質なのだ。