なぜこんな国になった…日馬富士と忠臣蔵の共通項・日本社会「公」と「家」
有名な事件
筆者は、この推移に江戸時代の有名な事件を思い起こした。 赤穂浪士の討ち入り、つまり忠臣蔵である。 行為や人柄が似ているというわけではない。加害者に対する世間の同情が強いこと、社会の思想的論評が二分されたこと、厳しい処分の方針が降ったこと、その三点が似ているのである。 赤穂浪士について歌舞伎や映画やドラマではその忠義ぶりが強調されるのだが、冷静に考えれば、四十七人もがよってたかって一人の老人を襲うというのはどうだろうか、しかも法律に反する計画的な犯行としてのテロリズムだ。今回の事件よりはるかにタチが悪いという見方も成り立つ。しかし江戸っ子は、彼らの行為を「よくやった」と拍手喝采し、多くの助命嘆願があったのである。 思想的には、室鳩巣など何人かの学者(儒学)が浪士の行為を賛美し助命を主張したが、荻生徂徠が社会の安定を重視して「きわめて厳しい処分=切腹」を主張した。 結果として、浪士たちは全員腹を切り、その物語は美談となって日本の演劇文化に大きな地位を占めるに至った。繰り返し上演されることにより、この事件が暴力に対する社会の対応と世論の型をつくったともいえる。 かつては忠義とされた「仇討ち」が禁じられたことが背景にある。元禄十四年から十五年は、関ヶ原の合戦からほぼ百年後、平和と繁栄が頂点に達した時代である。徳川家(家康)は中国の基本道徳である儒学によって、荒んだ武士の心を懐柔して文書階級に切り替えようとしたのであり、「武士道」とはある意味で「武」の道徳化であった。 近代日本も、少し前までは戦争に明け暮れ、暴力、体罰が横行する世の中であった。敗戦後GHQ(連合国軍総司令部)は、欧米流の民主主義を基本にして、平和を絶対視し暴力と体罰を絶対悪とする社会に切り替えようとしたのである。日本男児から「武」の精神が失われた。 現代は「法治国家」という言葉が絶対的な力をもつ。 しかし近年その法治に対する不満の声も高まっている。明らかに卑劣な残虐行為も裁判に時間がかかり、殺人罪も十数年で出所できるのでは、被害者の遺族はたまらないだろう。赤穂浪士のように、自らの手で無念を晴らしたいと考える人が出ても不思議ではないのだ。