映画『オッペンハイマー』:世紀の傑作か、問題作か クリストファー・ノーランが描く「原爆開発」
「答え」に回収されない映画体験
映画『オッペンハイマー』が広島・長崎への原爆投下や、被爆地・被爆者の現実を直接描写していないことは早くから議論のポイントとなっていた。ノーラン自身はその理由を、「オッペンハイマーの主観を貫くため」だったと語っている。史実のオッペンハイマーは原爆投下の詳細を事前に知らされておらず、他の人々と同様にラジオを通じて知った。この映画では、その時から彼の心境が大きく変化していくさまが描かれている。 主人公・オッペンハイマーに寄り添ったノーランの判断は、おそらくすべての観客に支持されるものではないだろう。本作が観客の間で賛否を分け、時に「問題作」として扱われているのもそのためだ。しかし、こうでなければ描けなかった解釈と物語があることもまた事実で、キリアン・マーフィー演じるオッペンハイマーはきわめて複雑な人物として造形されている。本当に、彼は原爆開発の結果を予想していなかったのか。英雄さながら人々に持ち上げられてゆくなか、どのような精神状態にあったのか。 オッペンハイマーを囲む人々も重要だ。“宿敵”ルイス・ストローズ、妻のキャサリン、マンハッタン計画を指揮する陸軍将校レズリー・グローヴス、元恋人にして不倫相手のジーン・タトロック。それぞれに一筋縄でいかない人間味をにじませたのは、当代きっての演技巧者たちだ。彼らのアンサンブルが、“人間”オッペンハイマーの多面性と、原爆開発の抜き差しならない内幕をじわじわと浮かび上がらせる。これもまた、劇映画という形式でこの題材を扱うことの意義と言っていい。 「簡単な答えは出ない、ただ問いかけたかった」とノーランは言う。日本への原爆投下が直接描かれないことも、ある意味では「問い」のひとつだ。死体の山のかわりにカメラがとらえるのは、被爆者の写真を直視することさえできないオッペンハイマーの表情。それは翻(ひるがえ)って、これまであまり想像されてこなかった歴史の一面に対し、観客が想像力をめぐらせるきっかけとなるはずだ。 さらに言えば、これはオッペンハイマーや原爆開発の物語を、私たちが生きる現代に引きつけて考えるきっかけでもあるだろう。なぜなら、メリットと引き換えに恐ろしいリスクをはらむ革新的なテクノロジーは今も世界中で開発されているからだ。どう考えてもろくな結果につながらない巨大なプロジェクトが、立ち止まりも引き返しもできないまま、闇雲に進められている現実もある。 かつてノーランは、本作の企画を10代の息子に初めて伝えた際、息子から「今の若者は核兵器の問題をさほど心配していない」と聞かされて大きな衝撃を受けたという。しかし同時に、だからこそこの映画を撮る意味があるとも感じたそうだ。作品の中でもインタビューにおいても、ノーランはつねに「具体的なメッセージを語ることはしたくない」と言い続けてきた。しかしラストシーンを見れば一目瞭然であるように、本作にこめられた真意は明らかすぎるほどに明確である。