終戦したはずなのに… 知られざる8月18日の「空戦」 停戦協定を”無視”して起きた 「太平洋戦争最後の空戦」とは?
知られざる終戦後の空戦―B32 1940年、アメリカ陸軍航空軍は超長距離爆撃機計画の最有力候補機として、ボーイング社のB-29を選択した。しかしもし同機の開発が失敗した場合、そのバックアップとなる機体を用意しておく必要があった。そこで、同計画にエントリーした各社の機体のうち、B-24ですでに定評を得ていたコンソリデーテッド社案のモデル33も合わせて開発することにした。そしてB-32の機体番号と、ドミネーター(「支配者」の意)という愛称を付与した。 実験機XB-32はXB-29よりも2か月早い1942年9月7日に初飛行したが、墜落事故や高高度飛行に不可欠な与圧室のトラブルなどが重なってその後の開発が難航。結局、与圧室なしの中高度域までを作戦高度とする重爆撃機として完成した。しかしその頃にはB-29の開発も軌道に乗っており、結局、生産されたB-32は実験機も含めてわずか118機に過ぎなかった。 そのためヨーロッパ戦域に送られることはなかったが、太平洋戦域で戦っていた第5航空軍が不足していたB-29の代わりに導入。第386爆撃飛行隊のみがB-32を装備して、戦争末期の1945年7月に実戦参加をはたした。そして8月15日の停戦後、停戦状況を確認するため17日と18日の両日に沖縄を飛び立ったB-32が日本本土上空に写真偵察のため飛来した。 ところが国同士が合意した停戦協定を無視した横須賀海軍航空隊の海軍戦闘機複数機が両日とも迎撃に上がり、17日にはB-32の搭乗員2名を負傷させ、翌18日には1名を戦死させたが、この人物が第二次大戦におけるアメリカ軍将兵最後の戦死者であった。 特に8月18日の空戦は、「太平洋戦争最後の空戦」などと称されることもある。
白石 光