ブレイディみかこ「宿泊先のトイレで指名手配犯が逮捕。人生何が起きるか分からない」
イギリス在住のブレイディみかこさんが『婦人公論』で連載している好評エッセイ「転がる珠玉のように」。今回は「15秒の名声」。オランダに行ったときのこと。滞在して3日目の朝、宿泊したホテルはなにやら物々しい雰囲気で――。(絵=平松麻) * * * * * * * ◆旅先での騒動 オランダに行ってきた。ロンドンからアムステルダムまでの飛行時間は1時間ちょっと。つまり、めっちゃ近いので、体調のいい連合いも同行することになった。 体調がいいとは言え、あまり疲れさせてもいけないと思い、アムステルダム中央駅のすぐ近くの小さなホテルに泊まることにした。 3日目の朝のことだった。朝食に行こうとすると、廊下に警官が立っていて、カフェの近くのトイレがテープで塞がれている。朝食会場にも、警官が何人も出たり入ったりして物々しい雰囲気だ。 「何かあったのかな......」 「ロビーのほうにも警官がたくさんいたよ」 とか言いながら朝食を終えたのだったが、部屋に帰り際、ついに我慢できなくなったらしい連合いがウェイトレスに尋ねた。 「何があったんですか?」 「逮捕者が出たみたいで」 「宿泊者ですか?」 「さあ......」 彼女も何が起きたかよくわかっていないようだ。そのまま部屋に戻り、身支度をしてホテルから出ようとすると、まだ玄関の外に十数名の警官が立っているのが見えた。 「何があったんですか?」 連合いは懲りずに受付の若い女性に尋ねた。 「指名手配されていた容疑者が、今朝、1階のトイレで逮捕されたんです」 「何の容疑者?」 「シリアルキラーです」
◆インタビューを受ける連合い ドラマのような展開に驚いたが、さらにびっくりしたのはホテルの外に出てからだ。中からは警察車両の陰になって見えなかったが、カメラを構えた報道陣が集まっていて、マイクを握った人々がこちらに寄ってくる。 「宿泊しているんですよね。話を聞かせていただけませんか」 「いや、わたしは何も知りませんので」 息子と一緒に下を向いて遠くまで歩き去った。が、1人足りない。 「あれ? 父ちゃんは?」 2人でホテルのほうを振り返れば、連合いが報道陣につかまり、マイクを向けられている。やけに胸を張って、身ぶり手ぶりをつけながらインタビューを受けていたのだ。 「マジかよー」 驚いているわたしのそばで、息子はスマホを出してその模様を撮影し、画像をSNSに流している。 「......これは、いったいどういう状況なんだ」 「え、親父さん、オランダでスターなの?」 などのメッセージが息子の友人から送られてきている。20分程度、あちこちの取材陣にカメラを向けられてしゃべった後で、ようやく連合いがわたしたちのところに戻ってきた。 息子はスマホで情報収集を始めていた。どうやら、ホテルで逮捕された容疑者は、ここ数日ずっとメディアを騒がせていたようで、新聞やニュース番組でもトップで扱われていた事件らしい。アムステルダム中央駅の監視カメラに映った容疑者の映像が公開され、情報提供者には高額の報奨金提供が発表されていたということだった。 ここからは連合いがテレビ局のリポーターに聞いた話だが、容疑者はホテルにトイレを借りに入ってきたそうで、早朝から修繕工事に来ていた建設業者の従業員の一人にトイレの場所を聞いたのだという。容疑者の顔にピンときたその従業員が通報し、警察官がすぐホテルに駆け付け、トイレで御用になったとのことだった。 それからわれわれは観光に出かけ、夕方になってホテルの部屋に戻ると、テレビで「ついに容疑者逮捕」のニュースをやっていた。受付の女性や、通報した建設業者の従業員のインタビュー映像が流れている。が、連合いは出てこない。あちこちチャンネルを替えてみても、連合いの映像は映らなかった。 「あ、ローカル局のに出てる!」 スマホとにらめっこしていた息子が言った。首都圏のローカル局のサイトに容疑者逮捕のニュース動画が上がっていて、最後のほうに連合いの映像が使われているらしい。