渋沢栄一を直接知る最後の子孫…ひ孫の雅英さん(99)が語る 栄一氏と新紙幣
その栄一氏が、国民に大きく反対されることなく、新紙幣の“顔”として受け入れられたことにも、雅英さんは安堵したという。
■栄一氏の孫も通貨の価値を守るために奔走…いま渋沢栄一が「お札の顔」になる意味
実はこの日、雅英さんが言及した渋沢家の人間がもう1人いる。雅英さんの父(栄一氏の孫)である、渋沢敬三。戦中から戦後にかけて日本銀行総裁や大蔵大臣を歴任した人物だ。特に終戦直後の激しいインフレ進行を阻止するために奔走し、通貨の流通量を強制的に減らそうと、国民の各種預金を封鎖する「預金封鎖」を行い、それまでの紙幣を強制的に新しい紙幣に切り替える「新円への切り替え」を行った。 渋沢雅英さん(99) 「『新円』を作った時の日本の状況は本当に悲しい状況で、うちに帰ってきた父親が『きょうはGHQに行って交渉をしてきた』と言っていたのを今も覚えている」 いわば日本の通貨、紙幣の価値を守るために奔走した敬三氏は、1963年、67歳で死去。雅英さんは「戦争中のお金に関する苦労が、彼の命を縮めたのではないか」と振り返る。
渋沢一族が関わり、守ろうとしてきた日本の貨幣制度。こうした歴史を経て、渋沢栄一が「新紙幣の顔」になった意味を、雅英さんはこう語る。 渋沢雅英さん(99) 「大変な時で、私も(終戦直後は)『日本はどうなるのかな』というふうに思っていたが、不思議なことに、それから日本はだんだん回復してきて、あれから70年以上たち、世界の『一流国家』というほど偉くないかもしれないが、ひとつのステータスを持った国になれた。それ(経済の回復と成長)をずっと、紙幣というものは引っ張ってくれた。…紙幣が引っ張ったわけじゃないけど、ひとつの象徴だった。それに新しく栄一が(肖像に)なるということは、ありがたいことだし、うれしいこと。しかも国民のみなさんが、栄一はそういう(お札の顔になるにふさわしい)功績があった人だと思って下さったのは、大変印象の深いことだった」