4000メートルのタワーに、世界初のドーム球場など…実現には至らなかった読売グループの破天荒な巨大建築計画とは?(レビュー)
その後もテレビ放送に参入したい企業の数は増え続け、経済合理性や都市景観の観点から「これ以上、電波塔を増やすわけにはいかない」と集約化構想が浮上する。「東京タワー」の誕生である。都心にビルが増え難視聴が問題になったことから、高さはこれまでの電波塔の2倍の333メートル。NHKや民放各社が共同利用することになった。 ところが日テレは東京タワーの利用を拒否する。「すでに持ち家があるのになぜ借家に入らねばならないのか」という正力の主張はもっともらしいが、正力は肝心なことを知らなかった。当時、正力の邸宅は神奈川県の逗子にあった。二番町の電波塔から50キロメートル近く離れており、間に高層ビルが林立している。本来なら難視聴を実感できる場所だが、正力に気を遣った日テレの幹部が正力邸に電波を届けるために特別のアンテナを設置し、技術者を頻繁に派遣して映り具合を調整していたのだ。 いずれにせよ日テレには新たなタワーが必要だった。東京タワーにランドマークの座を奪われた正力は、新宿区東大久保に550メートルの電波塔を建てようとする。その名も「正力タワー」。晩年の正力は何かに取り憑かれたかのように巨大建造物を作ろうとする。在京プロ野球球団が増えたことを理由にした世界初の屋根付き球場「正力ドーム」、果ては多摩丘陵のよみうりランド周辺で計画された4000メートル・タワーの建設。どれも実現には至らなかったが、どれか一つでも実現していたら読売グループは深刻な経営難に陥っていただろう。 巨大建造物に取り憑かれたのは正力だけではない。正力のライバルで「天皇」と呼ばれたNHK会長の前田義徳もその一人だ。 朝日新聞のローマ特派員で日独伊三国同盟をスクープした前田は戦後、NHKの解説委員になり、報道局長、編成局長を経て会長に就任した。その政治力を生かし、ワシントン・ハイツ跡(代々木)の国有地取得でも大きな役割を果たした。前田は代々木の放送センター敷地内に610メートルの電波塔を建てようとした。 二人の競争はますますエスカレートするかに見えたが、1969年、正力が84歳で亡くなったことで呆気なく終わる。日テレは東京タワーに送信機を移し、NHKタワーも技術の進歩によって不要となった。東京の新たなテレビ塔は地デジへ完全移行した翌年の2012年、「東京スカイツリー」の登場を待つことになる。正力ドームは「東京ドーム」に姿を変え、1988年に開場した。 本書には正力ドーム、NHKタワー以外にも、高度経済成長期に計画された数々の巨大建造物の来歴が記されている。本書を片手に「強者どもが夢の跡」を巡るのもまた一興であろう。 [レビュアー]大西康之(ジャーナリスト) 協力:新潮社 新潮社 波 Book Bang編集部 新潮社
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