4000メートルのタワーに、世界初のドーム球場など…実現には至らなかった読売グループの破天荒な巨大建築計画とは?(レビュー)
桁外れの欲望が生み出した破天荒な「幻の建築計画」をテーマにした選書『正力ドームvs.NHKタワー―幻の巨大建築抗争史―』(新潮社)が刊行された。 【読売タワーの模型と立面図を見る】4000メートルと破天荒すぎるタワーとは? 新宿に世界初の「正力ドーム」、多摩丘陵に4000メートルの「読売タワー」、代々木公園に610メートルの「NHKタワー」など、昭和の巨魁たちが競った激熱プロジェクトが記された本作の読みどころとは? ジャーナリストの大西康之さんが紹介する。
大西康之・評「一つでも実現していたら、深刻な経営難に陥っていただろう」
能登半島地震と羽田空港航空機事故。2024年はいきなり巨大災害で始まり、テレビやネットは普通の人たちがスマホで撮影した災害・事故現場の動画で溢れた。我々はいつでも、どこでも情報を受けたり発信したりできる情報化社会に生きている。 かつて(今も部分的に)情報は活字の形で紙に載って運ばれた。現代、情報のほとんどは電気信号の形で電波に乗って運ばれる。一般的にはこれを情報化と呼ぶ。そして「情報化の歴史とは電波塔の歴史である」と看破したのが本書である。 東洋大学准教授で景観・都市計画・建築を専門にする筆者は、「電波塔の歴史」を探求する。それは当時の「情報」の最先端であったテレビの歴史と一対をなす。 日本におけるテレビの歴史の主人公の一人は、戦前、内務官僚(警視庁警務部長)を経て経営不振の読売新聞を買収し、国務大臣にまでのし上がった正力松太郎だ。戦後、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監された正力は、不起訴になると米国の後押しを受け日本テレビ放送網(日テレ)を立ち上げる。 米国の目的は「テレビを通じて各国民に民主主義を啓蒙することで、共産主義の脅威から守る」ことだった。東西冷戦が激しくなると米国は日本に核開発を推奨するが、原子力委員会の初代委員長として「原発推進」の旗を振ったのも正力だった。 日テレがテレビ放送を始めたのは終戦から8年目の1953年8月。その半年前に公共放送の日本放送協会(NHK)が日本初の放送を始めていた。 電波を飛ばすには高い塔、すなわちタワーが要る。NHKは紀尾井町の高台に178メートルのタワーを建設した。日テレは千代田区二番町に154メートルの鉄塔を建てた。 1953年に日テレのアドバイザーとして来日した米国の専門家は「(ニューヨークはエンパイア・ステイト・ビルの屋上に7局分の送信施設が設置されているが、日本の)都心に二つも塔を建てさせた日本政府の方針は不可解だ」と述べている。