食事内容全て記録“ダルビッシュ博士”右肘手術も「もう一回勉強できる」と試練を楽しみに変え日米200勝
◆米大リーグ ブレーブス1―9パドレス(19日・米ジョージア州アトランタ=トゥルイストパーク) 【写真】MLBも公式インスタグラムで日米200勝を祝福 パドレス・ダルビッシュ有投手(37)が19日(日本時間20日)、敵地・ブレーブス戦に先発して7回2安打無失点の快投で今季4勝目(1敗)を挙げ、日米通算200勝(日本93勝、米国107勝)を達成した。日米通算での大台到達は野茂英雄、黒田博樹に続いて3人目。自己最長となる25イニング連続無失点という圧倒的な内容で節目の勝利をつかんだ。NPBのみの通算200勝も過去24人いるが、全て先発での達成は史上初の快挙となった。 派手なリアクションはない。達観したように、偉業の瞬間を受け入れた。最後のアウトをベンチで見届け、ダルビッシュはゆっくりとハイタッチの列に加わった。 「正直そんなに実感がない。とりあえず200勝に届いてホッとしています」。日米通算200勝の勲章をつかみ取った。7回2安打無失点と、強力ブレーブス打線を圧倒して4連勝。メジャーで自己最長となる連続無失点を25回に伸ばした。3回2死からは13者連続アウトの無双ぶりだった。 前日18日は、雨で1時間50分待った末の中止。スライド登板で「体の力はなかった」と言いながら、今季最多9Kを奪った。天才的な指先の感覚で操る球種は、微細な違いを含めれば10種類以上ともされる。このゲームは、MLB公式サイトではスライダー、ナックルカーブなど8球種。「いろんな球を交ぜて相手のバランスを崩せた」。魔術師のように翻弄(ほんろう)した。 4月14日の登板後、首の張りで負傷者リスト入り。離脱中に「全て携帯に入っている」という過去の食事内容などを見返した。 「体がちょっとしぼんできているというか、年取ってきたかなと思ったので、勉強し直した。サプリメントも食事も1回全部ガラッと変えて、そしたら体脂肪が3%くらい落ちた。ちょっと若くなってきた」 20年間のキャリアは、本人いわく「練習したくない」天才から、努力の天才への変ぼうの歴史だ。東北高時代から注目を浴び、日本ハム1年目の05年に5勝。2年目の06年6月13日のヤクルト戦(神宮)が運命を分けた。5回途中6失点KO。試合後、宿舎の東京ドームホテルで危機感に襲われた。 「もう無理だと思った。このままだと結局ズルズルいって、1軍半(の選手)になるのが見えた。その時トップだった(西武の)松坂(大輔)さんが本当にすごかった。カットボールで149キロとか投げていて、ああなりたいと思った」 すぐにサプリメントの会社に連絡し、必要とされるものは全て購入した。専門書を読みあさり、今ではトレーニングや栄養学の知識は球界屈指。「博士みたいな人」(中日・涌井)と評されるまでになった。 メジャー入り後は、15年に右肘手術。体重100キロ超えの肉体に改造し、コンパクトなフォームに変える転機となった。カブス時代の18年は右肘痛で1勝に終わり「一番苦しかった」と明かす。ただ、試練を「もう一回勉強できる」と楽しみに変え、聖子夫人らに支えられて乗り切ってきた。 23年のWBCでは、チーム最年長ながら若手選手と積極的に交流。「自分が単純に友達になりたかっただけ」と照れつつ、大谷が食事していればしっかり観察した。「日本人でしかない感性はいっぱいある」。飽くなき探求心が原動力だ。 ルーキー時代、200勝は「気が遠くなる数字」だった。「自分がそこまで行けたのは、すごくよく頑張った」と、率直な思いも口にした。次の目標は、と聞かれ「201勝目ですね」。試合後、日本にいる母・郁代さんの携帯電話に「ありがとう」と短くメッセージを入れた。少しだけ余韻を楽しみ、次のマウンドへの研究を始めているはずだ。 ◆ダルビッシュ有(だるびっしゅ・ゆう)1986年8月16日、大阪・羽曳野市生まれ。37歳。宮城・東北高で2年春から4季連続で甲子園出場。2004年のドラフト1巡目で日本ハム入団。07年に沢村賞を受賞。07、09年はMVP。08年北京五輪、09、23年WBC日本代表。11年オフにレンジャーズ移籍。17年途中にドジャース、18年にカブス、21年にパドレスへ。NPB通算93勝38敗、防御率1.99。MLB通算107勝86敗、防御率3.55。196センチ、100キロ、右投右打。妻は元レスリング世界女王の聖子さん。 ◆ダルビッシュに聞く ―プロ20年目の節目で200勝。 「やっぱプロに入ったときにいろいろあって、その中で(日本ハム)ファイターズとファンの方々、日本全体ですね。優しく育ててくださったので、それがずっと自分の基になっている。その感謝を忘れずにずっとやっています」 ―最も記憶に残るのは? 「(初勝利を挙げた05年6月15日の広島戦9回に)新井(貴浩)さんに右中間にすごいホームランを打たれて、野村謙二郎さんにも(本塁打を)打たれて、それが一番印象深いですかね」 ―活躍できる要因は。 「栄養管理だったり、トレーニングをするとか、健康に気を付けているということだと思う」 ―固定概念を持たず挑戦できる姿勢は。 「小さい頃からそう。そもそも成績を残すところではなくて、どちらかというといろんな変化球を投げたい、こんな球を投げたいというのがずっとやっている動機」 ―印象に残る捕手は。 「鶴岡さんですね。それは絶対。自分がフラフラしているというか、鶴岡さんにも結構ナメた態度を取っている中で、それを全然見せなかったですし、いろいろ思うところはあったと思うけど、我慢してくれて、自分を乗せるようにやってくれたのが、自分が成長できた理由。忘れないですよ。僕のスタートなので」 ―野茂が日米通算201勝、黒田が同203勝だが。 「時代がちょっと違うと思うので、実力も違うと思いますし、二百何勝で数字というよりも、実力で追いつきたい。そこが次の目標であるかもしれないです」 ―ウィニングボールは。 「ないです。どこ行ったんだろう。もらってないです」
報知新聞社