「単衣はいつから?」の問題と、きもの選びの楽しみ〔阿川佐和子のきものチンプンカンプン〕
【連載】阿川佐和子のきものチンプンカンプン
形見分けとなったお母さまのきものと積極的に向き合っていくことを決意した阿川佐和子さん。“チンプンカンプン”なことばかり……と迷走しながら、歩みはじめたきものライフを、小粋なエッセイとともに連載でお届けします。 ・阿川佐和子さんの紬の装いをまとめて見る>>>
「単衣の縄張り」── 阿川佐和子
どうやら地球の温暖化は年を重ねるごと着実に進行している気配がある。一昨年の夏もつらかった記憶がないわけではないが、去年の夏はさらに強烈だった。五月頃から夏日を記録し始めて、尋常とは思えぬ暑さが五ヶ月ほど続いた。ああ、やっと涼風が吹き始めたと思った頃、もはや年の瀬ではないですか。 四季の美しさを誇っていたはずの日本はもうなくなったのか。春や秋を愛でるのは、ほんの数週間だけに限られてしまうのか。 そうなると、きもの文化をどう始末すればいいのだろう。 「アガワさん、『きものチンプンカンプン』に書いてくださいよ。十月に袷を着ろと言われても、今どきは無理です!」 昨年九月半ば、仕事でお世話になった俳句の先生が、きもの姿で首元の汗を拭き拭き、悲壮感に満ちた顔でおっしゃった。 「ホントにねえ」 応える私は、夏に単衣のきものを着ることさえ、「無理!」と叫びたくなるけれど、季節を大事にして仕事をしておられる方にとっては、なおさら苦しいご心境だろう。 「どうなの?」 きもの編集者のカバちゃんに、その疑問を突きつけてみたところ、 「いいんじゃないですか?」 ってことは、どういうこと? 「さほど杓子定規に考えなくても、その日の気温や天気によって臨機応変にきものを選んでもかまわないと思いますよ」
そういえば、母の昔の写真を見て、発見したことがある。私が二十代の終わり、織物の修業をしている時代に秋の展覧会に母がやってきた。ギャラリーで作品を見てまわる母の姿が写真に写っているのだが、その日、着ていたきものはどうやら単衣なのである。後々、母のきものを仕分けした際、写真と照らし合わせて気がついた。 「あら、これ、単衣みたい。でもこの展覧会はたしか九月か十月初めだったと思う」 もしかして昔の人は、気候に合わせて柔軟にきものを選んでいたのではないか。これは母の独断ではないと思われる……たぶん。となれば、俳句の先生が渇望なさるように、たとえ五月でも、夏のように暑い日は単衣を選んでいいのかもしれない。十月になって汗が止まらぬほどの暑さであれば、無理に袷を着なくてもいいと思われる。 とはいえ、絽や紗のような、裏が透けるほどの薄地の夏きものでは露骨過ぎるだろう。 「色合いや柄、帯の素材や文様次第で、単衣でも『夏夏!』していないものもありますから。上手に選んで組み合わせれば、決して場違いにはならないのです」 カバちゃんにそう言われて思い出した。 以前、きものの専門家に教えられた言葉がある。 「桜の季節に桜柄のきものを着るのは野暮というもの。本物の桜の邪魔をしてしまいます。逆に、真夏に雪の柄のきものを着るのは粋の一つ。きものは本人だけでなく、その姿を見る人の気持に寄り添うことが大切です。暑い日に雪の柄のきもの姿を見れば、心が涼やかになるでしょう」