凡ミスをするAI 新しい「種」とどう付き合うか?
AIは人間の仕事を奪うか
AIに関する一般的な議論にはいくつかのパターンがある。代表的なものは、AIは人間の仕事を奪うか、AIが人間の上に立ち人間を攻撃することはないか、AIは感情をもつかそしてその権利(人権のようなもの)は認められるべきか、といったところだ。 しかしわれわれはこれまで、機械やロボットに対しても同様の議論をしてきた。19世紀初めのイギリスでは、機械に仕事を奪われることを恐れた労働者が、工場と生産機械の「打ち壊し」を始め(ラッダイト運動)、これがのちの社会主義運動につながった。たしかにAIが人間に取って代わる仕事もあるだろうが、機械やロボットの場合と同じように、それを管理する周辺の仕事は増えるのではないか。AIに奪われるのは、高度な頭脳労働とされていたが、実は少し訓練すれば誰にでもできるというようなものだろう。どんな仕事も時代の変化に脅かされているものだ。今の日本では、資格や免状など既存の制度に守られているものほどAIの脅威に晒されるような気がする。 AIが人間の能力を超える時点を「シンギュラリティ」と呼ぶ。個々の能力ではすでに超えているのだが、全般的にAIという種の能力が人間という種の能力を超える「技術的特異点」の意味である。「自らを改良し続けるAI」が現れたときだともいう。つまり外在化された脳の自動進化が始まるときである。今は2045年と予測されている。残念ながらというべきか、幸いにもというべきか、僕はその時まで生きていないだろう。 問題は社会的主導権であり、人間がコントロールできない、あるいはコントロールされる恐れが指摘されている。しかしすでに人間は、複雑化する社会システムの歯車となり、管理され、監視され、その主体性を奪われているのではないか。そういったことは、ベルトコンベア生産の初期を描いたチャールズ・チャップリンの映画『モダン・タイムス』でも、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』、ジョージ・オーウェルの『1984年』といった近未来小説でも描かれている。これはむしろ脳の外在化についてまわる、人間と社会組織の問題なのだ。 AIが人間を攻撃することは考えにくいが、この点についてはアイザック・アシモフの「ロボット工学三原則」(人間を攻撃しない、人間の命令に従う、自己破壊しない)が思い起こされる。実際、AIの問題はかなりの部分、これまでロボットの問題として考えられてきたことに近い。定義としても、AIが、たとえ人間の形をしていなくとも、たとえ物体として独立的でなくとも、ひとつの個体として認識されるならロボットと呼んでもいいだろう。