<知らんかった>大阪のカニ看板前は「文楽」発祥の地だった
「カニ」の看板前にある建物の一角に石碑
<知らんかった>大阪のカニ看板前は「文楽」発祥の地だった 報告:岡本ゆか 企画・撮影・編集:柳曽文隆 協力:国立文楽劇場 THEPAGE大阪
大阪市中央区にある道頓堀は、いつも多くの観光客らでにぎわいをみせている。特徴的な看板の多さでも知られるが、あの大きな「カニ」の看板前にある建物の一角で石碑をみつけた。「竹本座跡」と彫られており、それを説明する看板には「文楽の原点、ここにあり」と記されていた。これはなにを意味するのか。さっそく同区にある国立文楽劇場を訪ねた。 【動画と拡大写真】人形遣いが語る文楽の魅力と思い 国立文楽劇場の裏側へ潜入
「文楽は大阪の道頓堀が発祥です」
「文楽は大阪の道頓堀が発祥です」と教えてくれたのは、人形遣いの吉田幸助さん。来年4月、祖父の名跡を継ぎ、五代吉田玉助を襲名することが決まっている期待の遣い手の一人だ。 江戸時代の1684年、元は大阪・天王寺の農家に生まれ、のちに京都に出て浄瑠璃の太夫(語り)として活躍していた、義太夫節の創始者である竹本義太夫が道頓堀に芝居小屋を創設し、興行を始めた。このとき義太夫が建てた劇場が「竹本座」である。 後に浄瑠璃作者の近松門左衛門を迎え入れ、「曾根崎心中」など今なお上演されている名作を次々に出した。竹本座が人形浄瑠璃文楽の歴史が始まった場所と言われるゆえんである。 「竹本座は歌舞伎をしのぐ人気で、周囲に豊竹座などいろいろな芝居小屋ができて、お客さんもたくさんでにぎわっていたそうです」と幸助さん。だが、やがてその人気は衰退し、竹本座は1767年、80年あまりの歴史に幕を閉じた。
1984年に同区日本橋に国立文楽劇場が完成
だが、後に淡路島出身の興行師である初代植村文楽軒が高津橋(大阪市中央区)付近に座を開いて、衰退していた人形浄瑠璃を再興。 そののち4代文楽軒が大阪市西区の松島に「文楽座」を名乗って開場。この文楽座が唯一、人形浄瑠璃専門の劇場だったことから、「文楽」が人形浄瑠璃の代名詞として称されることにつながったと言われている。 やがて文楽座は、大阪市中央区の御霊神社境内へ移転し「御霊文楽座」となり、同西区に移転し四ツ橋文楽座となったが、1945年3月に空襲により焼失し、1956年に同中央区の道頓堀文楽座(後に朝日座に改称)が開かれた。そして1984年に同区日本橋に国立文楽劇場が完成し、朝日座は閉館、現在に至る。
300年以上前の道頓堀は文楽でにぎわい
ここに至るまで様々なできごとがあったが、現在も古くからの伝統を受け継ぎ公演されている。先の幸助さんは現在、同劇場で公演中の夏休み文楽特別公演(8月8日まで)の第3部、「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」で、団七九郎兵衛と義兄弟の契りを結び団七を助ける侠客、一寸徳兵衛で出演している。 現在も道頓堀はにぎわいをみせているが、300年以上前に、あの場所にたくさんの座が建ち、文楽でにぎわいをみせていたと聞くと歴史を感じる。長い時を超え、国立文楽劇場がその発祥の地から歩いて行ける場所に今も存在することを思えば、一度はその伝統を目にしてみるのもいい機会かもしれない。