【長嶋茂雄は何がすごかったのか?】 チームメイト・高田繁が語る"ミスタープロ野球"<後編>
高田 アマチュアなら普段からみんな仲良くでいいんだけど、プロは全然違う。「巨人の選手たちは仲がよかったんですか」とよく聞かれるけど、そんなことはない。 長嶋さんはお酒を飲まない人で、遠征先でも出かけることが少なかった。王さんは逆で、外に出るのが好き。僕は長嶋さんと同じで、できるだけホテルで休みたいというタイプだった。 チームにはいろいろな人がいて、試合後の行動もさまざまだった。それでも試合になってプレーボールの声がかかればひとつにまとまる――それが本当のプロだと思う。あの時の巨人は間違いなく、プロの集団だった。そういえば、誰かと食事に行ったという記憶はないな。 長嶋さん、王さんというスターがいて、それ以外の選手は脇役に徹していた。だから、長嶋さんと張り合おうと考えたことなんか、一度もないよ。柴田さんや土井正三さんを意識はしたけれど。 ■戦後の復興を目指す日本の象徴だった ――長嶋さんが立教大学を卒業してプロ野球でデビューしたのは1958(昭和33)年。終戦からまだ13年ほどしか経っていませんでした。 高田 長嶋さんがデビューした時、僕は中学生だった。あの頃の男の子たちはみんな、野球をやっていたし、長嶋さんに憧れない子どもはいなかったと思う。そういう背景を考えれば、あれほどの影響力を持つ選手はもう二度と出てこないだろうね。 ――巨人が創設されたのが1934年。日本プロ野球の歴史は90年を数えます。もし長嶋茂雄というスーパースターの台頭がなければ、現在のプロ野球の隆盛はなかったかもしれませんね。 高田 戦後の日本が求めたスーパースターだったから。現役引退後に長く巨人の監督もされたし、文化人としての顔もあった。でも、プレーヤーとしての長嶋さんがいなければ、今のプロ野球人気はなかったと思う。長嶋さんがファンの期待に応えることで注目度がさらに上がっていった。 ――改めてうかがいますが、プレーヤーとしての長嶋さんのすごさとは何でしょうか。 高田 長嶋さんのすごさは切り替えができること。あれだけ期待された選手だから、背負っているものも多かったはず。思うように打てないこともあっただろう。でも、悩んでいる様子をまわりに見せなかった。打てなくてもすぐに気持ちを切り替えることができたんだと思う。そこがほかの選手との違いだった。 ――チームメイトにもそういう姿を見せなかった? 高田 そうだね。まわりからは、長嶋さんにスランプなんかなかったように見えた。何打席かノーヒットでも、1本出ると立て続けに打つ。苦しんでいる姿は記憶にないな。 長嶋さんは、日本が伸びていく時代の、巨人が光り輝いた時代の象徴だった。まだまだ豊かとは言えなかった日本中の人が長嶋さんから勇気をもらったんだよね。「巨人が嫌いだ」と言う人はいても、「長嶋が嫌いだ」と言う人はいなかった。みんなが長嶋さんを好きだった。 ――やはり、そんな野球選手はこれからも出現しないでしょうね。 高田 みんなに本当に愛された野球選手だった。長く一緒に野球をやったけど、長嶋さんから人の悪口を聞いたことがない。「あいつはこうだ」とは絶対に言わなかった。そういう人なんだよね。本当に、そこにいるだけでまわりがパッとなるような存在。スーパースターなんだよなあ。 ■高田繁(たかだ・しげる) 1945年、鹿児島県生まれ。浪商高(現・大体大浪商)から明大に進み、67年ドラフト1位で巨人入団。68年に新人王を獲得。69年から4年連続ベストナイン。80年引退。85年から4年間、日本ハム監督。巨人の1軍コーチ、2軍監督、日本ハムGMを歴任し、08年から10年途中までヤクルト監督。11年12月にDeNAの初代GMに就任し18年まで務めた。 取材・文/元永知宏