「日本の和歌」のスゴさが体感できる「東京の庭園」をご存じですか? じつは「門」からすでにおもしろかった…!
「和歌」と聞くと、どことなく自分と縁遠い存在だと感じてしまう人もいるかもしれません。 【漫画】床上手な江戸・吉原の遊女たち…精力増強のために食べていた「意外なモノ」 しかし、和歌はミュージカルにおける歌のような存在。何度か読み、うたってみて、和歌を「体に染み込ませ」ていくと、それまで無味乾燥だと感じていた古典文学が、彩り豊かなキラキラとした世界に変わりうる……能楽師の安田登氏はそんなふうに言います。 安田氏の新著『「うた」で読む日本のすごい古典』から、そんな「和歌のマジック」についてご紹介していきます(第24回)。 【前の記事】「「日本の和歌」のスゴさを、心の底から体感できる…意外な「東京の公園」の名前」では、東京にある庭園・六義園が、和歌を楽しむために最高の場所であることを紹介しました。ここではいよいよ、六義園のなかに分け入ります。 *
遊芸門跡
入場料を払って入ると、まず門があります。門というものは軽々しく通ってはいけません。 『神曲』地獄篇の第3歌には地獄への入口の門が登場し、古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれたダンテがその門をくぐろうとすると、その頂に彼らに語り掛ける文が書かれているのを彼は見つけます。 私を通って悲しみの都に至り、 私を通って永遠の苦悩に至り、 私を通って失われた者どもの間に至る (原基晶訳:講談社学術文庫) そして、その最後には「あらゆる希望を捨てよ、ここをくぐるおまえ達は(Lasciate ogne speranza, voi chʼintrate.)」と記されていたのです。こわっ。 ナチスドイツの絶滅収容所であるアウシュヴィッツ゠ビルケナウ強制収容所の門には「働けば自由になる(Arbeit macht frei)」と書かれていましたが、しかしそこに収容された人たちはその門から再び出ることも、自由を得ることもできない、帰らざる門でした。 門に入るときと出るときとでは体の向きが違います。それは門に入った人は、出るときには同じ人ではないことを意味します。 門とは異界への入口です。心して通りましょう。