日本で学びを続けるウクライナ人学生「祖国の復興に生かしたい」
ロシアによるウクライナ侵攻が始まって2年7か月が経過した。戦火を逃れ日本にやってきたあるウクライナ人学生は今年、日本で大学院に進学し、新たな道を歩み始めている。戦争が始まるまで日本への留学を考えたことすら無かったという彼女に、日本での生活や故郷・ウクライナへの思いについて聞いた。
■筑波大学で学ぶウクライナ人学生たち
茨城県つくば市にキャンパスを構える筑波大学は、ロシアの軍事侵攻によりウクライナで学ぶことが難しくなった学生らを2022年から受け入れている。授業料・学生宿舎の費用免除などのサポートを提供し、これまでに受け入れた人数は国内の大学で最大規模の42人。学生達は滞在が長期化する中で、日本での就職や進学など、それぞれが将来のための選択を迫られている。 首都キーウで家族と暮らしていたステファニーア・パルベッツさん(25)は2022年10月に来日した。当初、半年ほどで終わると思っていた日本での生活は早くも2年に。本国で修士の学位を取得していたステファニーアさんは、筑波大学の支援プログラムを終えて、日本で大学院に進むことを決断し、今年4月から筑波大学大学院で国際公共政策を研究している。日本語はいまも勉強中のため、ゼミや研究指導を英語で受けられるプログラムを選んだ。新たな生活を始めてまもない6月、ステファニーアさんに日本に来た経緯や、ひとりのウクライナ避難民としての思いを聞いた。
■日本で学ぶ機会「来年はないかも」
――2022年2月24日、侵攻開始直後の状況は? 24日の真夜中(未明)に母が私を起こし「私の部屋で寝なさい」と言いました。部屋を移動したところで、爆撃の音が聞こえたのです。荷物をまとめた緊急用バッグを用意していましたが、最悪の事態が現実になるとは信じたくないものです。近くで戦闘が起こりそうだと聞き、シェルターとなっていたショッピングセンターの地下駐車場へ避難しました。その後、夜はそのシェルターで過ごし、朝になるとアパートへ戻ってシャワーを浴びたり食事をする生活を2週間続けました。攻撃の多くは夜に起きると分かったからです。人生の大部分において、人には何をするかしないかの選択肢があり、その結果を受け入れることができます。しかし、この(戦争という)状況では、何をしようと正しい選択だという保証はありません。何もすることができないことは私にとって初めてのことで、非常にショックでした。 ――日本に来ることになった経緯は? (ウクライナ西部・テルノピリで避難中に)筑波大学でウクライナ人学生が学びを続ける機会があることを知りました。私が9歳か10歳の頃、父が仕事で日本に行ったことがあり、とても気に入ったそうです。だから東京を1度か2度訪れるのが私の夢でした。でもとても遠いので、「また来年、また来年」と先延ばしにしていたのです。でも、筑波大学で学ぶチャンスについて知ったとき、「もう『来年』はないかもしれない。応募すべきというなにかの知らせかも」と思ったのです。きっかけは偶然でしたが、それで今はここにいます。 ――なぜ「来年はないかも」と考えた? 戦争が始まったあと、最初にシャワーを浴びることができたのは3日目か4日目でした。髪を洗い、歯を磨くこの瞬間が、人生で最も幸せな時だと本当に思ったのです。真実の幸せというのは小さな出来事にあり、高価なものはいらないと気付きました。戦争が始まって最初の数週間、本当に恐ろしかったです。戦争そのものではなく、戦争が死をもたらすことが怖かったのです。戦争という状況では、両親に愛していると伝えるべきはきょうなのだと気付きました。明日にはもうできなくなるかもしれませんから。一日一日が最後かもしれないと理解することは、人生により多くの意味をもたらすと思います。日本に来る機会を得られたことに罪悪感もあります。多くのウクライナの若者はそれができませんから。国を守るために戦って死んだ、私と同い年や年下の若者がたくさんいるのです。このような時に日本に来るのは自己中心的なことかもしれません。ですが、私がいま国を離れるのは、それができない全ての人々の代わりだとも考えます。日本で勉学に励み、学問のプロとなり、ウクライナに戻ってより多くを貢献したい。命を犠牲にした人たちのためにも、私は人の倍働き、倍努力すべきなのです。