落合博満監督、“ラストイヤー”に起きた中日球団幹部の『ガッツポーズ騒動』…上司に厳命された『優勝手記』、交渉の舞台裏
敵はめっぽう多いが、支持するファンもいる。それが「落合博満」という人である。筆者が見聞きしたエピソードでつづるシリーズ。監督時代に起きたガッツポーズ騒動。こちらも翻弄(ほんろう)されたのであります。 ◆落合博満さん、歌手としても活躍していた【写真】 ◇ ◇ 筆者が部長になったのは2011年である。最初は辞退した。今もそうだがドーパミンが脳内で分泌されるのは満足がいく原稿が書けた時だけだったからだ。それでも2日後、上司から「誰かがやらなくてはならん。それに途中入社(3年ほど他社にいた)のキミが部長になれば後に続く者の励みにもなるだろう」と言われて観念した。ただ評価は別にして管理職に手を抜いたつもりはない。 思い出はいろいろある。作家の増田俊也さんは当時部員で大宅壮一ノンフィクション賞に輝き、授賞式にも招かれた。若手ドラ番が病気で離脱した時には森合正範記者が急きょ後任を引き受けてくれた。力石徹のモデルと言われた山崎照朝さんの連載を担当しながら、ダブルワークを見事にこなした。後に井上尚弥と戦った選手に焦点をあてた「怪物に出会った日」を出版し、評判に。2人とも筆者など足元にも及ばぬ物書きである。 部員のトラブルに手を焼いたことも何度かあった。さらに世に言う「ガッツポーズ騒動」にも翻弄された。2011年、中日は一時10ゲーム差をつけられながら逆転優勝した。球団フロントは同年を限りに落合監督と契約更新しない旨を明らかにしていたが、まさかの結末となった。その途中、負けて球団幹部が喜んでいたという疑惑が持ち上がった。ただ、直接証言は得られておらず真相は今もわからない。当然記事にもしていない。 そんな中、上司から「優勝したら監督の手記をとれ」と厳命された。自らアタックするしかなかった。怒り心頭の落合さんは「来なくていい」「断る!」とにべもない。遠征先の広島にアポなしで押しかけて交渉したがやはりダメだった。ところが優勝目前、諦めかけていたところに了解の返事が来た。「お前に恥をかかすわけにはいかんだろう」と。 さてこの手記には、わずかだが、かつ慎重にガッツポーズ騒動を織り込んだ。それが意外だったらしく、ある新聞は「『このことを載せないなら手記は受けない』と半ば”恫喝”」だったと書いたが、それは違う。交渉過程で条件など一切なかった。 一人称の手記は大方の評論と同様にこの時も聞き書きの形をとった。その中で、ガッツポーズのウワサが反骨心に火をつけたという旨の話が出た。意図的に削除すればそれは手記ではなくウソになる。上司とも相談した結果、そのまま掲載した。もしその部分を削除せよと命じられたら手記はお蔵入りさせるつもりだった。ガッツポーズの真偽はともかく、そんなウワサが流れるほど当時のフロントとの亀裂は深かった。 ▼増田護(ますだ・まもる)1957年生まれ。愛知県出身。中日新聞社に入社後は中日スポーツ記者としてプロ野球は中日、広島を担当。そのほか大相撲、アマチュア野球を担当し、五輪は4大会取材。中日スポーツ報道部長、月刊ドラゴンズ編集長を務めた。
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