横尾忠則が54年間書き続けている“日記” 気になるナカミは
前回、1970年に交通事故に遭って、2年ばかり「休業宣言」をした話を書きましたが、その時、この状態を日記で記録してみようと思い、日記を書き始めました。この日記は後に「PUSH」と題して講談社から発刊されました。
日記はそれ以前にも正月が来ると日記帖を買ってきて挑戦していたのですが、いつも三日坊主で終ってしまいました。僕に限らず誰もが一度や二度は挑戦するのですが、大抵の人はしばらくすると挫折をしてしまいます。 どうしてでしょうか? なぜ続かないのですかね。それはきっと書き続ける必然性も目的もなく、役に立ちそうにないからではないでしょうか。僕が何度も止めたのは毎日の作業が面倒臭くなったからではないかと思うのですが、じゃ、どうして書こうと思うのですかね。新年が始まろうとすると、来年こそ何か今年とは違うことを計画してみたい、そんな時、フト思うのが日記ではないでしょうか。 年末になると文具店の店頭には様々な装幀の新しい日記帖が並んでいます。来年こそはやったことのないことをしたい、その時頭をかすめるのは日記を付けてみるかということで、そんな心理を上手く利用したノート会社がこぞって新しい日記帖を刊行するので、ついそれにつられて日記帖を買ってしまうのです。そして元日から書き始める。2日目、3日目と書くのですが、そのうち5日頃になると会社に出勤、いつもの日常が始まる。昨日も今日も、明日もほとんど変りばえのない日常が。そんな変りばえのない日常を記録しても何も面白くない。少しは日記のために面白い日常にしたい。と思うのですが日記のために一日を面白くしたいなんて、その内馬鹿らしくなって、「俺は日記のために生きてんじゃないぞ」と日記を書くのを止めてしまうのです。 僕が日記を書き始めたのは交通事故のケガの記録をつけるためでしたが、入院生活という非日常生活も珍しく、また体調が次々変化する。先生や看護師との交流も非日常的で毎日が珍しいことだらけです。だから日記が続けられたように思います。 また毎晩のように夢を見ます。その夢についても日記の一行目から書きます。夢という無意識と入院生活という意識、この2つが肉体の障害と精神状態ともからんで、日記を続けられたように思います。 その後、つまり交通事故に遭った1970年から毎日、一日も休まず54年間書き続けています。イギリス製の日記帖は現在も同じものが発刊されているので、55冊も並んでいます。僕の日記は文字だけでなく、スケッチや、新聞記事や旅先きで手にした絵ハガキ、ラベル、スタンプなどがページにベタベタ貼られていて、最早、作品化しています。 ところが最近はスケッチも、文字さえも書くのが大儀になって、新聞に掲載された記事や文章だけを貼る日記帖に変ってしまいました。それも「週刊読書人」という新聞に11年前から日記を連載することになったので、新聞に掲載された日記文を一週間ごとに貼りつけて、書くことを横着してしまっています。でも日記には違いないのですが以前の絵日記のような日記に比べると実に貧相なものです。 僕の書く日記は一種のスケジュール帖でもあります。未来ではなく一週間前のスケジュールが活字になって貼られているだけで味もそっけもない非常に事務的なものです。だからクリエイトされた日記ではありません。そんなわけで、毎日記述する内容は今日誰が来て、どんな仕事を依頼されたか、どんな絵を描き始めたか、それと見た夢を書きます。日記での僕の一日は夢という無意識から入って、顕在化されたその日が記されるのですが、いつも体調のことから始まるので、しょっ中病院に行って先生から聞く身体情報も記します。何日間も病気の話ばかりが続くことがあります。入院などすると、病床日記です。時には病気と絵の間で生活しています。 コロナ以後、外出も滅多にしないので、以前は旅日記だった日記が最近はアトリエ内に籠ってウダウダと絵のことや体調のことばかり。こんな僕の日記を読む新聞の読者は一喜一憂しているのかというと、していないと思いますが、同じようなダラダラ日記が恐らく死ぬ少し前まで続くんでしょうね。この日記は何年かごとに本にまとめていて、3冊目が来年に出ます。台湾からも年末か、年始に出ますが、部厚い本だから翻訳が大変だっただろなと同情もします。外国人も読んでくれるとは思ってもいなかったので、読者が日本人だけではないとわかれば、日本の情報を日記を通して報告するのもいいかなと思っているそんな毎日です。 横尾忠則(よこお・ただのり) 1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。 「週刊新潮」2024年12月19日号 掲載
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