ボブ・マーリーのライブは“拝む人”もいるほど凄い! 「楽屋や新幹線での様子」など当時の思い出を関係者が語る
没後42年経っても人々に愛され続ける稀代のアーティスト、ボブ・マーリーの伝記映画『ボブ・マーリー:ONE LOVE』が、5月17日(金)に公開となる。J-WAVEはこれを記念して、著名人や関係者のトークから、ボブ・マーリーの色褪せぬ魅力を掘り下げる9時間の特別番組をオンエアした。 ここでは、元東芝EMIボブ・マーリー担当ディレクターの三好伸一氏が、ボブ・マーリーのプライベートタイムを含めた思い出を語ったパートをテキストでお届けする。 【オンエア日:5月6日/『J-WAVE GOLDEN WEEK SPECIAL SONGS OF FREEDOM -TRIBUTE TO BOB MARLEY-』(ナビゲーター:グローバー)】
ボブ・マーリーとの出会い─初来日が決定するまで
ボブ・マーリーは16歳で音楽キャリアをスタートして1972年にメジャーデビュー。ジャマイカ、レゲエミュージック、そしてボブ・マーリーという存在を広めていくが世界の音楽シーンで実際に名をはせた時間というのはわずか9年。この9年間に実際にボブ・マーリー本人と接して貴重な時間を共有して体験した1人の日本人がいる。当時ボブ・マーリー、そしてレゲエミュージックを扱っていた元東芝EMIのレーベル担当三好伸一氏だ。 三好氏はボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ日本進出のキーパーソンとして尽力。最初で最後となった1979年のジャパンツアーではプライベートタイムも含むすべての時間をボブ・マーリーとともに過ごしたという。まずはボブ・マーリーを知ることになったきっかけ、そして自身のファーストインパクト、さらに当時のレゲエへの反応を振り返った。 三好:最初に知ったのはエリック・クラプトンの『I Shot The Sheriff』です。それが1974年ですかね。アメリカでチャートナンバーワンになって、そのオリジナルのアーティストがボブ・マーリーだったのを知りました。 当時の三好氏は“イギリスフリーク”で、ビートルズの大ファン。ビートルズに憧れるあまり、当時ビートルズが所属していた東芝EMIに入社したほどだと語る。入社してからはビートルズの担当になったものの、すでにグループ解散後で、ジョン・レノンが『Imagine』をリリースしたタイミングだったという。 三好:『Imagine』にすごく影響を受けて、そういうときに出会ったのがボブ・マーリーでした。それまではジャマイカミュージシャンやジャマイカの音楽なんていうのは僕にとっては全然イメージがない、唯一ハリー・ベラフォンテの『Banana Boat Song』ぐらい、いわゆるカリプソの音楽だと思っていました。ところがボブ・マーリーをクラプトンのオリジナルアーティストとして聴いたときに、まったく違う音楽だったのでびっくりしました。 カリプソの後に流行したスカミュージックとも全く異なる曲調に「すごくびっくりした」と振り返る三好氏。「それがボブ・マーリーとの最初の音楽の出会いです。それがロックミュージックよりももっと強いインパクトを僕には与えました」とコメントする。 三好:この音楽をもっと紹介したいと思っていろいろ考えて、レコードをいっぱい発売しました。最初にやったのはジミー・クリフのレコードを発売して、ジミー・クリフを日本に呼んでコンサートをやって、その次にボブ・マーリーたちを呼びたいと思いました。78年にジミー・クリフの日本公演が決定して、3時間ぐらいのすごいステージでめちゃくちゃよかった。すごいと思ってプロモーターの人たちもジミー・クリフが成功したのでボブ・マーリーの名前も意識し始めて、それで79年にボブ・マーリーの来日が決定しました。