『わたしは目撃者』XYYの悲劇…遺伝子による差別社会への抵抗
レイモンド・チャンドラー、エラリー・クイーンのエッセンス
「折に触れて『わたしは目撃者』は自分では気に入っていないと発言してきたし、あれから時が経った今もやはりそう思う。前作と違ったものにしたいと気負いすぎたからというのもあるだろうし、フランスのノワールを理想としていたのに、いつの間にかアメリカの推理ものの雰囲気が優勢になってしまったからというのもあるだろう」(*) アルジェントは、否定的なニュアンスで『わたしは目撃者』(71)を述懐している。「アメリカの推理ものの雰囲気が優勢になってしまった」というのは、確かにそうかもしれない。論理性よりも幻想性、脚本の整合性よりも映像の快楽を追求するタイプの彼にしては、伝統的なミステリーに仕上がっている。「大ヒットとなったデビュー作『歓びの毒牙』のような映画を」という周囲の期待に反して、異なるタッチの作品を作りたかったアルジェントの反骨精神も、要因に挙げられるだろう。この作品には、超自然的な禍々しさや、極端な様式化といった要素は希薄だ。 そもそも本人が、レイモンド・チャンドラーのエッセンスを映画にまぶしたと発言しているくらいだから、アメリカの推理小説のような雰囲気になることは必然だった。フランコからの命を受けて、新聞記者のジョルダーニ(ジェームズ・フランシスカス)が、研究所所長テルジ(ティノ・カラーロ)の邸宅で娘アンナ(カトリーヌ・スパーク)と出会うシーンは、チャンドラーの「大いなる眠り」でフィリップ・マーロウがヴィヴィアンと出会う場面を引用している。 本作の原題は『九尾の猫』(Il gatto a nove code)だが、これはエラリー・クイーンが1949年に発表した「九尾の猫」にちなんだもの。ニューヨークで発生した連続殺人事件の犯人“猫”の正体を追って、警察が奔走する長編推理小説だ。だが正直、「九尾の猫」と『わたしは目撃者』との関連性はあまり認められない。むしろ筆者が共通性を感じるのは、エラリー・クイーンの著作のなかでも特に名作と呼ばれる「Xの悲劇」(32)と「Yの悲劇」(32)である。 主人公の探偵ドルリー・レーンは、元シェイクスピア俳優。聴覚を失ったために舞台から引退し、今では悠々自適の生活を送っている。「Xの悲劇」で初登場した彼は、その卓越した推理力で難事件の捜査に協力。満員の市電で発生した謎の殺人事件をみごと解決する。その設定は、盲目の名探偵フランコとどこか重なる。 そしてシリーズ第二作となる「Yの悲劇」の舞台は、ニューヨークの名家ハッター邸。医師の診断によればハッター家には遺伝的な欠陥があり、彼らの体内に宿る血が惨劇を生み出したのだという。今となっては、科学的根拠に欠けるばかりか差別にも繋がる危険な描写だが、この設定も『わたしは目撃者』と酷似している。真犯人が連続殺人を犯したのは、自らの遺伝子が悪性である(と信じ切っていた)ことに端を発しているのだから。