アカヒジ・サムエルさん 国籍回復を親族とともに喜ぶ
太平洋戦争で国土の全てが日本とアメリカの激戦地となったフィリピン。戦時下、反日感情が高まるなか、家族を引き裂かれた残留日本人二世たちがいます。 「日本人として認められたい」終わらない戦後を“いない存在”として扱われてきたある男性が戦後80年を前に取り戻したのは、日本国籍の回復と家族の絆でした。 みちこさんの声「koseki-to-hon. Samuel Kamura」 戦後80年を前に日本国籍の取得が認められたアカヒジ・サムエルさん。 「幸男:そう、香村よ。香村、香村サムエル、OK」「訳:沖縄の親族と出会えて、父に心から感謝している」 彼の人生を大きくを変えたのは、“沖縄の家族との出会い”でした。 車中でサムエルさん僕を捜してくれていただろうかと聞かないほうがいいかな?沖縄の家族が「サムエルさん」の存在を知ったのは、去年12月。日本人の血を引きながら、日本人ともフィリピン人とも認められず、無国籍の状態だったサムエルさん。親族と名乗り出た人たちの証言や記録などをもとに、今年4月日本国籍の回復を目指して「就籍」の許可を申し立てました。 あれから1年あまり。親族と名乗り出た人たちが再び顔をそろえました。サムエルさんに会いに行くためです。 當間康之さん「サムエルさんもまちかんてぃしていると思うんですよ。早くできるのを」 香村幸男さん「これは許可がおりるのは間違いないと思います」 島袋恵子さん「向こうで拾ってお墓のなかに入れたてあげたいなって」 フィリピンマニラまで飛行機を乗り継ぎ3時間、さらに離島のブスアンガ島まで1時間弱、距離にしておよそ2000キロの旅。家族としていい知らせをサムエルに伝えたい。そう願っていた幸男さんたちのもとに、朗報は突然届きました。 フィリピン日系人リーガルサポートセンター代表理事・猪俣典弘さん「みなさんが(フィリピンに)いらっしゃるときに、審判の結果を伝えたいと、そしたら、特別に内容を教えて下さって、それで、国籍が取れましたと」幸男さん「万歳ですね」「よかった、よかった」 手を振る恵子さん 香村幸男さん「いるよ、恵子」「久しぶり」「はい、サムエル!久しぶり(両ほほに触れる)」 空港では、サムエルさんが幸男さんたちの訪問を待っていました。およそ1年ぶりの再会です。 香村幸男さん「感激です。また今日もいっぱい飲めるな。腹いっぱい。うれしい。(キス!)」 さっそく向かった先は、サムエルさんの父親が殺害された場所。戦前にフィリピンに渡った沖縄出身の赤比地勲さん。戦時中、現地のゲリラに射殺されました。遺骨はありません。 島袋恵子さん「お骨とかそういうものは回収できない。そのままって感じ?」説明する猪俣さん「そのまま亡くなって、そのまま?捨てられたんですね。ご遺体をね、近づくと家族なのか、または親日の日本人と、身内または仲間だと思われるから近づけなかったと」香村幸男さん「戦争っていうのはやばいんだよね。ほんとに」 家族は、沖縄から持ってきたお菓子などを供え、勲さんが眠る場所に向けて手を合わせます。 「はい、勲さん、・・・んまがさ ちびさが ちょーんどーさい。ちゃーみーまんとーし、しちゃむる、がんじゅーしみそーり。うたびーみしぇーびみさい。(勲さん、みんなで一緒に参りました。いつも見守っていただき感謝します。どうぞ、おだやかにお過ごしください。みんなを見守って下さい、沖縄で親族がおじさんを待っています。石を 拾っていきますね)」 「骨として、沖縄にめーんくとぅ めんそーりーんさい」 香村幸男さん「さびしいね、寒気がする。おじさん、喜んでいるかもね喜んでいるよ」「勲さんだよ。これ沖縄にもっていくからね。(訳:これは私たちの命。勲さん大好きです love isao.)香村幸男さん「OK。ありがとう。来てよかった」 フィリピンと沖縄、それぞれの地で生きてきた家族。言葉は通じなくても思いを通わせた瞬間です。そして 「koseki-to-hon. Samuel Kammura ofecial Japanese」香村幸男さん「そう、香村よ。香村、香村サムエル、OK。ばんざーい」 香村サムエルさん「マラミン、サラマッポ(拍手)Akahiji Family.(いとこたちがここまで会いに来て伝えてくれたことが本当にうれしい)」 島袋恵子さん「やっと伝えられたなという感じがしますね。どうしても自分たちがやらなかったことをサムエルさんが勇気を出して、おれは日本人だよって言った、言ってくれたことに関して、感謝しています」 様々な思いを抱きながらも祖先を敬い、ふるさとを思い続けた二つの家族。胸の奥にずっとしまってきたものを少しずつ取り戻すかのように、時間の許す限りともに過ごしました。 香村サムエルさん「訳)僕が日本に行った時には、空港に迎えに来てほしい」 香村幸男さん「OK、」(サムエルさん笑顔)「すぐ、いつでもおいで。そういう気持ちがあってね、うれしいよ。」 再会を誓い、フィリピンをあとにしました。それから数日後。幸男さんたちは、本家を訪れていました。 「フィリピンから拾ってきた石を勲さんの形見として拝みたいと思います」「きょうからまた、末永く幸せに、家族が幸せになるようお願いいたします」 戦争で亡くなったと聞かされていた勲さん。やっと家族のもとに帰ってきました。 島袋恵子さん「いつも胸の中にしまっていたモヤモヤがそれが少しなくなったかなって、少し荷が下りたような気がします。ほんとに行ってよかったなと思っています」 香村幸男さん「勲さんね、ほんとに魂が沖縄に来たと。これは思っています(頷く)」 沖縄の家族と出会い、「日本とのつながり」を取り戻すことができたサムエルさん。命をつないでくれた父への誇りを胸に、新たな歴史を紡いでいきます。 サムエルさんの場合は、親族が見つかり国籍回復が認められうれしいニュースが続いた。支援団体によると、戦後79年となる今も、フィリピンで無国籍の状態で暮らし国籍回復を望む、身元捜しを望む残留日本人2世の人たちが50人あまりいてそのチャンスを待っている。 この問題は、決して過去のものではない。平均年齢83歳。残された時間はあとわずか。私たち日本人が2世の人たちから学ぶことは何か、問いかけている。