「門松カード」のルーツは? 戦後の質素な新生活 林産収入増へ資源保護 本紙に見る2つの記録/兵庫・丹波市
兵庫県丹波市は、12月の市広報と共に配っていた、正月飾りの「門松カード」の各戸配布を今年度からやめ、市のホームぺージのデータを各自で印刷する方式にした。「正月飾りの多様化により利用者が減少している」ことが理由。市は「森林保全目的で始まったと聞いているが、詳しいことは分からない」とする。物心ついた頃から記者の家でも貼っていた門松カード。いつ、どういう理由で始まったのか、創刊100周年の丹波新聞の過去記事を調べたところ、2つのルーツが記録されていた。戦後の新しい生活、経済発展を目指そうとする官製運動とつながっていた。
昭和20年代終わりから30年代初めにかけて毎年末、「門松廃止」の見出しが丹波新聞紙上に踊っていた。 青垣いきものふれあいの里(同市青垣町)で今月25日に開かれた「ミニ門松づくり教室」で講師を務めた谷勉さん(82)は、「それは『新生活運動』の流れだろう。質素に暮らすとか。運動があった」と即答した。 同運動は昭和22年に閣議決定された「新日本建設国民運動要領」に端を発する。「合理的・民主的な生活習慣の確立」などの目標が掲げられており、戦後の民主化運動の中で広がっていった。昭和30年に協会ができ、活動が本格化。虚礼の廃止、習俗の改革などがあり、「門松廃止」は実践の一つ。 丹波新聞昭和31年12月10日号で、新生活運動のモデル地域に選ばれた氷上郡(現・丹波市)春日町が、門松、クリスマスツリーを「図画で代用。止むなき時は松の枝」と啓蒙している。「カード」のルーツの一つとみられる。
翌年12月25日号で、氷上郡山南、柏原両町の年末年始の「新生活運動」の実践項目に「門松の廃止」がある。昭和31年春に県知事が春日町大路地区を訪れ、同運動について講演。運動が盛んだったことがうかがえる。 市の担当者が言った「森林保全」はほぼ正解。保全の前段階、緑化が目的。氷上郡では純粋な自然保護でなく、収入増とセットにしたものだったようだが。 確認できた中で最も古い「門松」記事が昭和28年12月25日の「門松を廃止 乱伐防止に躍起」。氷上地方事務所(県と町村の中間行政機関)の林務課が、山林緑化の観点から廃止依頼文を関係機関に出していた。県内他事務所で門松廃止を決議しており「全国的にもこの運動が展開されようとしている折でもあり是非本郡も」と、流れに呼応。記事中、同事務所職員が「謹賀新年と書いた紙を門松がわりにはることを決議した」とあり、ここにもう一つのルーツを見る。 翌昭和29年、同事務所は氷上郡で門松に使われる松の本数を「三万七千六百本に及ぶ」とし、切らずに40―45年置いておくと「千六百四十万円」の林産収入になるとそろばんを弾き、将来、莫大な利益が見込めると協力を求めている。 成果を年明けの昭和30年1月10日号で「郵便局と一部料理屋などをのぞいて見受けず、徹底した自粛ぶり」「花屋で売れ残り」と報じている。花屋で売っていたのは畑で栽培したものでなく、山で抜いた松とみられる。 戦前から戦後の濫伐で山に木がなく、昭和20年代後半から国を挙げて造林に心血を注いだ時代。昭和30年の「昭和の合併」時、町村が持ち寄る財産に占める山林の割合は大きく、喧々囂々(けんけんごうごう)の議論が行われた。松は、パルプの原木として需要が激増。違法伐採が横行し、泥棒も相次いだ。 昭和29年に国土緑化推進委員会が、資源愛護と冗費節約の趣旨から運動を全国展開。ここで門松は、「市町村等がカードを作成の上、戸ごとに配布を行うことが望ましい」と示された。内閣府は昭和31年12月13日付で「門松及びクリスマスツリーの自粛運動について」を地方公共団体に通知。官製運動はここに極まる。昭和34年12月25日号で、氷上郡市島町が門松を廃止する代わりに「印刷物を各戸配布する」とある。この形が昨年度まで続いた。