徳川家康の次男であるのにもかかわらず将軍になれなかった男【結城秀康】
結城秀康(ゆうきひでやす)は天正2年(1574)、徳川家康の次男として生まれた。幼名を於義丸という。生母は浜松城の御殿女中であったお万の方(永見氏)。生まれるとすぐに家康の重臣・本多作左衛門重次に引き取られて養育された。家康は於義丸を嫌ったとされるが、その理由は不明であり、実母が身分の低い女性だったからではないかという説や、家康が本当に於義丸が自分の子どもかどうか疑ったから、などの説がある。 父との面会もかなわないままでいた於義丸を可哀想に思った兄・信康は、家康が岡崎城に来た時に、3歳になっていた於義丸を呼んで、父子の対面を実現させたというエピソードも残る。本能寺の変後の天正12年(1584)3月・4月に「小牧・長久手の戦い」の後、秀吉と和睦した家康は、10歳になっていた於義丸を秀吉の養子とした。人質でもあった。於義丸は、元服の際に養父・秀吉と実父・家康の名前を一字ずつ貰って「秀・康」と命名された。まさに「豊臣氏」と「徳川氏」両家の絆となるべくされた命名である。 後に家康の重臣・本多正信は長じた後の秀康について「家康も秀吉も認めざるを得ないほどの武勇絶倫、知謀深淵の武将である」と評価しているほどである。 秀康は気の荒い一面を持ってた、とされる逸話はいくつかある。秀吉の膝下にいた16歳の時、伏見城の馬場で秀吉の中間(小者)と馬の競い合いになった。自尊心の強い秀康は、その中間を「無礼者」とばかり斬って捨てた。中間とはいえ、秀吉の家臣である。大騒ぎになった。すると秀康は「いかに関白殿下の家臣であろうと、この秀康と争うとするのは無礼である。問題あるか?」と叫んだ。誰も手が出せないままであった。秀吉はこれを聞いて「養子とはいえ秀康は我が子その無礼は死罪に当たると心得よ。秀康の心映えも見事である」として誉め讃え、秀康の罪を問うことはなかった。 秀康の初陣は、秀吉の九州征伐。豊前・岩石城攻撃に参戦している。その後も幾多の合戦に出て武功を上げている。 秀吉は天正18年(1590)小田原・北条氏を滅ぼすと、秀康を下総・結城晴朝の養子として転封させ10万余石の知行を与えた。ここから結城秀康を名乗ることになる。 秀吉が没して2年後の慶長5年(1600)9月、関ヶ原合戦が起きる。その直前、目的の上杉景勝の会津・若松城を目前にして小山会議を開き、挙兵した石田三成(西軍)への対応を協議した家康(東軍)は、宇都宮に秀康と秀忠、2人の息子と3万の徳川勢を残して自らは江戸に反転した。この後、秀忠は軍勢を率いて関ヶ原に向かい、秀康は上杉方の抑えとして宇都宮に残り、景勝の動きを封じ西上を阻止した。秀康26歳である。 合戦後に秀康は、その戦功を認められて越前1国68万石を与えられた。それは隣国の加賀・前田家監視の役割でもあった。なお、結城家は秀康の4男・直基が継承したため、秀康は「松平姓」に復帰したものと思われる。 しかし、生涯秀康に「将軍位」は回ってこず、秀康自身も関ヶ原から7年後の慶長12年、34歳という若さで早世する。一説には、毒殺の噂もある死であった。
江宮 隆之