じつは前回の「南海トラフ巨大地震」から、すでに316年が経過しているという「恐るべき事実」
歴史に学ぶ
三重県伊勢市の伊勢神宮・外宮境内にあった「子良館(こらかん)」に勤務する歴代の神官たちが当番制で書き継いだ(1661年~1812年)日記がある。その「外宮子良館日記(げくうこらかんにっき)」から、現代意訳で宝永地震を見てみる。「宝永四年丁亥十月四日壬午の未上刻」は、西暦にすると1707年10月28日14時前、畿内、東海道および南海道諸国が激しい揺れに襲われる。この地震の有感範囲は非常に広大で、家屋潰倒の激震範囲は約200里(約790キロメートル)にも及び、蝦夷を除く日本国中、五畿七道に亘って大揺れとなった」と記されている。被害の範囲は現在の南海トラフ巨大地震震度分布図(1-(5) 図参照)に重なるようにも思われる。 1707年10月28日13時45分頃、東海道沖から南海道沖を震源域として、推定M8.6~9.3の宝永地震が発生した。最大震度は現在の震度階でいうと震度7とされ、太平洋沿岸に大津波が押し寄せ高知県土佐久礼で最大約25.7メートルの津波高と推定されている。宝永地震の被害は東海道と伊勢湾・紀伊半島・四国が最も大きく、東海道の宿駅の一つ袋井(現在の静岡県袋井市)は町が全壊(ちなみに袋井宿は安政地震の折も全焼)している。特に津波被害が甚大で「宝永地震」の犠牲者の大部分が津波によるものと推定されている。死者は5千人~2万人と言われている。当時の日本の人口が推定約2800万人として類推すると、現在の人口からすると約2万2500人~9万人に匹敵するような被害である。 宝永地震の時、地震の影響で道後温泉(愛媛県松山市道後湯之町)では145日間も湯が止まったという記録が残っている。地震で道後温泉の湯が止まったのは、その1033年前に発生した白鳳地震(684年)時の日本書紀の「時に伊予湯泉(いよのゆ)、没(うも)れて出でず」という記載とも一致する。白鳳地震と宝永地震で道後温泉の湯に異常をきたしたということは、南海トラフ巨大地震では地殻変動が同じ場所で繰り返し起きることを示している。歴史は繰り返す。過去の地震で地盤が沈下したり、液状化が起きた場所でも警戒が必要になる。 南海トラフ巨大地震の被害想定(液状化)では、愛知県名古屋市、三重県四日市市・津市、和歌山市、大阪府堺市・大阪市、徳島市などが「液状化の可能性が大」とされている。こうした地域では過去に液状化があった場所かどうか確認しておく必要がある。液状化現象は同じ場所で繰り返されることが特徴。企業であれば、被害想定やハザードマップにより立地リスクアセスメントの再確認をすべきである。 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」(オットー・フォン・ビスマルク)。南海トラフ巨大地震対策は、災害史なども参考にしてその後に何が起きるか多角的に展開予測し、現代の社会状況や科学的知見を取り入れた準備と対策が求められている。 さらに関連記事<「南海トラフ巨大地震」は必ず起きる…そのとき「日本中」を襲う「衝撃的な事態」>では、内閣府が出している情報をもとに、広範に及ぶ地震の影響を解説する。
山村 武彦(防災システム研究所 所長・防災・危機管理アドバイザー)