「こんなに有名になるなんて思わなかったさぁ」ひとり老後を満喫、90歳沖縄おばーの生活
ひとりになっても楽しみは自分でつくる
子どもたちは独立して家庭を持ち、現在は孫10人、ひ孫14人に恵まれた。仕事を引退した後は夫婦で穏やかに過ごしていたが、去年の春、孝全さんが94歳で逝去。 「夫婦で100歳まで頑張ろうねって指切りしてね、約束したのよ。なのに、急に具合が悪くなって病院に連れて行くとさ、肺炎と言われて入院になって、そのまま亡くなったの」 突然、夫を失ってひとり暮らしになり、深い悲しみに襲われた。 「私もおじーのところへ行ってしまおうかと思ったけどよ……。うじうじ悩んでいても仕方ない、これが人生だって受け入れることで乗り越えたさ。今は孫たちのために頑張ろうと前向きになってるよ」 しかし、1年以上たった今でも孤独を感じる時がある。 「そういう時は本を読んだり、散歩したりしていれば、自然に楽しくなってくる。くよくよしないで、楽しみを自分でどんどんつくるのよ!そうすれば次に向かえるよ」 90歳まで大病もなく元気な吉子さんだが、健康のために続けていることは? 「毎朝、ラジオ体操を第2までやって、一日3キロはウォーキングしてさ。これも小学校の先生から言われて、80年間続けていること。食事は野菜をたっぷり使ったチャンプルーが定番で、毎日芋を食べているから便秘知らずなの。 趣味で、沖縄の植物のアダンの葉を編んで草玩具のバッタを作るのも、指先と頭を使うから、認知症予防になってるかもしれんね」 一番の元気の秘訣は歌。 「地元の民謡を覚えて家でね、アカペラで歌ってるよ。歌っていると嫌なことも吹き飛んじゃう」 そう言うと、取材中にも得意の『国頭村歌』を歌ってくれた。笑顔が絶えない吉子さんだが、10歳のころに悲惨な戦争体験をしている。毎年夏になると、約80年前の沖縄戦を思い出すという。
美しい着物に残る沖縄戦のつらい記憶
太平洋戦争末期の1945年、米軍が沖縄本島に上陸して始まった沖縄戦。国頭村では村民が山へ避難し、吉子さん一家も3か月間、山中の壕で生活を送った。 「海には船がびっしり、空には飛行機がいっぱい飛んでいて、見つからないように暮らすのは怖くてね。同級生の子が爆撃を受けて亡くなったのもショックだったよ」 15歳だった吉子さんの姉も犠牲に。兵士の世話をする看護隊に動員されていた時に、たくさんのムカデに刺され、アナフィラキシーショックで命を落としたのだ。 「治療もできなくてね、姉は1週間くらい苦しみながら亡くなった。戦争はこんな形でも人の命を奪うんだよ」 終戦を迎え村に戻ると、自宅は爆撃で焼け、灰になっていた。 当時、国頭村には特に被害状況が悲惨だった読谷村(よみたんそん)からの避難民が多くおり、吉子さんの母は新しく借りた家に読谷村の一家を同居させた。その子連れの女性が食料に困り、着物と米を交換してほしいと母に頼んだという。 「母は着物はいらないとお米3升を渡してあげたんだけどよ、女性は着物を置いて、そのまま読谷に帰って行きよった。2、3年前にタンスの整理をしていたらその着物が出てきてね。かわいそうにと感じて、持ち主に着物を返したいと」 孫の浩之さんがTikTokなどSNSを使って着物のことを呼びかけ、持ち主の娘を捜し出すことに成功。77年ぶりに再会を果たす。実は、着物は当時13歳だったその娘のために作られたものだった。 「うれしくて、でも当時を思い出すとつらいもんだから、涙を流して2人で抱き合ったよ」 その後、着物は地元の資料館に寄贈された。吉子さんは、地元の中学校で自身の戦争体験を伝える活動をしている。 「とにかく絶対よ、戦争はダメ。私が元気な間は伝え続けたいさ」 戦争を体験したことで、日頃からの人間関係でもケンカは絶対にせず、仲良くやれる方法を探す。それは家族でも同じだ。 「私は息子よりもお嫁さんを大事にしているからね。孫たちの幸せを考えたら、子育てを頑張ってくれているお嫁さんを大切にしなきゃ!」