家康に大坂城「総攻撃」を進言していた秀忠
12月3日(日)放送の『どうする家康』第46回「大坂の陣」では、方広寺に奉納した鐘銘(しょうめい)をきっかけに、徳川家と豊臣家による合戦が勃発する。14年ぶりとなる大戦に、徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)はイギリス製の大筒を配備して臨んだ。 家康最後の大合戦が始まった 豊臣方による度重なる挑発に徳川方は激怒する。挑発を見逃せば幕府の権威は失墜し、処罰すれば徳川方は世の反感を買うことになりかねない。徳川家康は、豊臣秀頼(とよとみひでより/作間龍斗)の母・茶々(北川景子)を江戸に人質として差し出すなどの条件を提示して事を収めようとしたが、逆に豊臣方は態度を硬化させた。 たたみかけるように、豊臣方は徳川方との交渉を務めていた仲介役・片桐且元(かたぎりかつもと/川島潤哉)の暗殺を画策。且元は命からがら逃げ出したが、これで両陣営の交渉の余地がなくなった。豊臣方の固い意思を受け取った家康は、合戦に踏み切ることとした。徳川が汚名を着る戦となることを承知の上で、家康は最後の出陣をするのだった。 こうして、豊臣方の拠点である大坂城の周辺で、両軍による局地戦が始まった。兵数で勝る徳川軍はことごとく勝利を収めたが、真田信繁(さなだのぶしげ/日向亘)の籠もる真田丸では、徳川兵が次々に倒されていた。 合戦を長引かせれば、さらに多くの戦死者を出すことになる。それを憂いた家康は、大坂城本丸に向けて大筒(おおづつ)による砲撃を開始。城内にいるはずの孫娘・千姫(せんひめ/原菜乃華)の生死をも厭わない攻撃に、家康の三男・徳川秀忠(とくがわひでただ/森崎ウィン)は戦慄する。 城内で逃げ惑っていた千姫は、義母・茶々に救われ一命を取り留めた。しかし、周囲の死体の山を見て愕然とするのだった。
久々の合戦に家康は高揚していた? 方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件が発覚し、事態の収拾を試みた片桐且元は、1614(慶長19)年8月17日に徳川家康に弁解しようと駿府に赴いた。しかし、家康の意向で且元は駿府に入ることが叶わず、やむなく郊外で家康の指示を待つこととなった(『時慶卿記』『義演准后日記』)。 同月20日、且元はようやく駿府に入ることはできたものの家康に会うことはできず、その代わりに徳川家家臣の本多正純(ほんだまさずみ)と金地院崇伝(こんちいんすうでん)から、銘文の弁明と大坂城に牢人たちを集めていることについて、詰問されている(『駿府記』)。 この時、且元は淀殿(よどどの/茶々)を人質として江戸に差し出すか、豊臣秀頼を大坂城から退去させ国替えするか、どちらかを選ぶよう迫られたという。 同年9月7日、家康は、江戸にいる西国大名たちに家康・秀忠に対して忠誠を誓わせる誓紙を提出させた。同月25日、且元は家康に対し、淀殿の怒りを買い、討たれるかもしれない、と知らせている(『駿府記』)。 翌月1日にも、京都所司代の板倉勝重(いたくらかつしげ)から且元暗殺計画があることを報じられた(『片桐家秘記』)。この時に家康は大坂城攻めを決意したという。 なお、この前後に豊臣方の穏健派であった織田常真(信雄/のぶかつ)も、大坂城を退去している。この頃になると、世間では豊臣方が幕府に反乱を起こすとの噂で持ち切りになったらしい(『落穂集』)。いずれにせよ、徳川方と平和的に交渉を続けようとする者がいなくなり、大坂城内は打倒徳川派で固まった。 同6、7日にかけて、京で牢人となっていた長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)、後藤基次(ごとうもとつぐ)、明石全登(あかしてるずみ)など約1000名が秀頼に召し抱えられ、大坂城で籠城を開始(『駿府記』)。 同8日、家康の三男で二代将軍の徳川秀忠は、家臣の土井利勝(どいとしかつ)を駿府に派遣し、家康の江戸駐留を要請した(『駿府記』)。つまり、この度の合戦を自分が差配することで、父・家康の出陣を思いとどまらせようとしたらしい。 ところが、家康は秀忠の要請を拒否して同11日、駿府を出発(『当代記』)。当時、家康は73歳であったが、急に若返ったように生き生きとした活力にみなぎっていた、という(「藤堂文書」)。道中で鷹狩を催すなど、大戦に赴くとは思えないほど、余裕を感じさせる行軍だったようだ。 同19日、美濃国岐阜に到着した家康のもとに、秀頼からの弁明書が届いていたらしい。その内容は、不届きなことをした且元を罰したのに、家康がそれに怒って出陣することは納得できないこと、家康・秀忠に対する野心は毛頭ないこと、といったものだったようだ。しかし、家康はこの書状を豊臣方の織田長益(おだながます)らが偽造したものであると見て取り合わなかった(『駿府記』)。 家康が二条城(京都府京都市)に到着したのは同23日のこと(『当代記』)。待ち受けていた且元から、大坂城内の仔細(しさい)を説明されている(『駿府記』)。同日に秀忠が江戸を出発(『徳川実紀』)。同時に、家康のもとにいる本多正純に、自分が到着するまで開戦しないよう申し伝える書状を出している(「和田文書」)。 同25日、家康は且元と藤堂高虎(とうどうたかとら)に大坂城攻めの先鋒を指示(『駿府記』)。同26日には織田常真と面会し、大阪城内の様子を聞いている(『当代記』)。 翌月10日、秀忠が6万の軍勢を率いて伏見城(京都府京都市)に到着。同15日、家康は二条城より出陣(『義演准后日記』)。同18日、茶臼山に本陣を設け、各所に付城を造るよう指示している(『駿府記』『当代記』)。 同19日、両軍による戦闘が開始された(『駿府記』)。小規模なものがほとんどで、月末には大坂城の包囲はほとんど完了した。 翌12月4日、功を焦った一部の部隊が家康の指示を待たずに大坂城の出丸のひとつである真田丸に攻撃を開始。しかし、戦巧者の真田信繁の立ち回りにより、多数の兵が命を落とした(『駿府記』)。 同8日、豊臣方の織田長益と大野治長(おおのはるなが)から和睦の条件の問い合わせがあった。内容は豊臣方に味方した牢人たちの赦免と、秀頼の国替え先だったという(『駿府記』)。この時、家康は牢人を赦免すること、秀頼は大和に転封する予定と返したらしい。 なお、正確な時期は不明だが、豊臣方との和睦交渉が始まろうとしていた12月初旬に、秀忠は家康に大坂城総攻撃を進言している(『駿府記』)。この申し出は、家康の機嫌をひどく損ねたという。 同9日には2時間にわたって城内に鉄砲を撃ちかけるなど、総攻撃が開始される。翌10日に、「降参する者は赦免する」などとする矢文を城内に放ち、城兵らの動揺を誘った(『駿府記』)。 同15日、織田長益と大野治長から、淀殿を江戸に人質として差し出すことと、牢人たちに給与を与えることを条件に和睦する旨、申し出があった。ところが家康は「牢人に何の功労があるのか」とはねつけたという(『駿府記』)。 同16日より、大砲を用いた大坂城の砲撃が開始。同17日には勅使が家康の陣を訪問している。豊臣方との和睦を勧めるためだったが、家康はこれを拒否した(『駿府記』)。
小野 雅彦