【教育無償化】日本が“制約なしの教育支援”をもっと進めるべき理由。政府の支援案には疑問も
東京都の小池百合子知事が昨年末の都議会において、高校の実質無償化に乗り出す方針を明らかにしました。これまでの無償化策には所得制限がかかっていましたが、これが撤廃され、公立・私立問わず無償化の恩恵を受けられるようになります。政府もほぼ同じタイミングで「こども未来戦略」を取りまとめ、大学授業料の無償化に向けて動き始めました。 教育の無償化については、これまで何度も検討されてきましたが、一部から強い反発の声も出ていたこともあり、思うように議論が進んでいませんでした。無償化に対する反対意見を大きく分けると2つに集約できると思います。ひとつは、年収が高い人にも支援を行うことの是非、もうひとつは、逆に年収が低い人にも公費で教育が提供されることの是非です。 まずは前者についてですが、1000万円程度の年収がある人は、そうでない人から見た場合、かなりの富裕層に見えるのは間違いなく、高年収の人にまで支援が行われることについて疑問の声が出てくることは理解できます。しかしながら、年収が1000万円あったとしても、子供が2人、あるいは3人という世帯の場合、全員を大学まで行かせるには相当な費用がかかります。 日本学生支援機構の調査によると、自宅外から大学に通わせるためには、私立の場合、4年間で約1000万円、国立でも700万円近くのお金が必要です。子供3人となれば、たとえ1000万の年収があっても家計は相当、厳しい状況となるでしょう。 昭和の時代までは、大学は一部の人だけが通う学校という位置付けでしたが、現代社会においてはスキルの獲得が極めて重要であり、多くの職種において大学教育が必須となっています。こうした現状を考えると、私立=お金持ち、あるいは教育=贅沢という考え方は成立しなくなっていますから、教育支援は全国民共通の課題と捉えるべきでしょう。
一部の人は、家計の状況で受けられる教育水準が違うのは当然だと主張しており、年収が低い世帯に支援が行われることについて否定的です。すべてに関して平等を求めてしまうと、社会主義の制度ということになりますから、何でも平等にすればよいというものではありません。 しかしながら、日本はエネルギーや食料を自給できず、人材以外に他国と勝負できるリソースを持っていない国です。教育だけは地理的条件に左右されない唯一の財産ですから、国益という観点からも、機会の平等だけは保証する必要があると筆者は思います。教育支援は可能な限り制約を設けず、全国民を対象に行うのが理想的でしょう。 その点からすると、今回の政府の支援策については疑問の余地があります。 公表された政府案は、3人以上の子どもを扶養する多子世帯に限定した無償化策となっています。所得制限はありませんが、この条件に該当する世帯はかなり少ないというのが現実でしょう。細かく見るとさらに課題が浮かび上がります。政府案では、3人子どもがいても、1人が社会人となり扶養から外れてしまうと、残りの2人は支援の対象外になってしまいます。これでは多子世帯に支援する意味が半減しますから、可能な限り制限をなくし、誰でも無条件で制度を利用できる仕組みを目指す必要があると思います。 ちなみに小池知事は、今回の表明に合わせて給食費についても支援を行う方針を示しました。 近年、日本社会の困窮化に伴い、給食費を払うのが困難な世帯が増えていると言われます。給食費補助についても、一部から批判の声が出ているようですが、学校給食というものが教育現場で提供されるものである以上、給食についても同じような方向性で議論するのが妥当と言えるでしょう。 米国は世界でも屈指の競争社会であり、お金がなければ何もできない国というイメージがありますが、実際、米国では自己責任論が強く、お金がない人に厳しい社会といえます。一方で米国には強力な学校給食支援プログラムがあり、多くの世帯がこの支援策を利用しています。 連邦政府は給食支援に毎年、巨額の予算を計上しており、かなりの力を入れていることが分かります。苛烈な自己責任社会の米国ですら、学校給食に対する巨額の政府支援が存在している現状を考えると、日本において給食に対する支援がないというのは不十分といえるでしょう。小池氏が指摘するように、政府が主導権を握り予算を確保すべき案件だと思います。 資本主義社会である以上、ある程度の自己責任は必要ですから、教育の機会均等を実現した上で、そこから先は本人の努力で差が付く社会が理想的ではないでしょうか。
加谷 珪一