沖縄からふるさと福島へ 元自衛官たちの支援
「宮古島はいいところだ」と何度も繰り返す。のどかな雰囲気で、至福の生活だった。 「もっとこの島に住みたい」と考えていた矢先、2年間で転勤になった。 宮古島から再び三重に転勤して約10年間を過ごす。その後の行き先は、「沖縄を狙っていた」そうだ。1988年の暮れ、念願通り那覇基地への転勤が決まった。 那覇基地では移動警戒隊として大型車両でレーダーを運び、司令部や隊先任として約15年、任務をこなした。54歳の時に准空尉で定年退官した。 退官後は発電機の設置工事や那覇空港の滑走路警備に携わった。沖縄福島県人会の事務局長を経て、現在は会長として会員をまとめている。
「当たり前だろ。同じ福島県人だから」
県人会の事務局長を務めていた2011年3月、東日本大震災が起きた。直後、福島から沖縄へ来た避難者が県人会に「頼りたい」と連絡してきた。 多くは沖縄に身寄りも情報もなかった。 「避難して来る人がいたら、俺の電話番号を教えてあげて」と知り合いらに伝え、避難者と連絡を取り合った。分かる範囲で、「○○の自治体が受け入れているよ」と情報を伝えた。 1日数件の電話に対応し、携帯には40~50人を超える避難者の連絡先が並んだ。「俺は余裕があったから、個人的に話を聞いていた」と振り返る。 震災の年の秋からは、キリスト教の教会を借りて避難者の集いを開いた。毎回20~30人が集まって餅をつき、郷土料理を作って、情報交換や雑談をした。 「みんな孤独なんだよ。とにかく誰かと話がしたい。独りぼっち状態だから、お茶飲んで話すだけでもしないと、閉じこもって付き合いがなくなるから」
福島県大阪事務所などを通じて、沖縄の公営住宅や、国の施設の入居情報も伝えた。当初は大変だったが、「支援が軌道に乗れば、個人間でやりとりしてくれる」と考えていた。 避難者の1人は、木村さんから「すごくは助けられないけど、相談には乗るよ」と言われたのが心強かったと話す。 当初は半ば県人会ぐるみで協力したが、やがて考え方の違いが見え始めた。県人会の中からは「なぜ沖縄まで逃げてくるの?」という声が出たし、避難者からは集まりに供された福島の食べ物を忌避する声が出た。さまざまな意見を抱えながら組織で動くのは難しい。県人会という組織ではなく、木村さんは個人で支援を続けた。 理由を聞くと、「当たり前だろ。同じ福島県人だから」。 「放っておけなかった」