沖縄からふるさと福島へ 元自衛官たちの支援
鈴木さん。特攻隊員だった叔父から「空を飛ぶ夢」
沖縄と福島の交流や、ツアーを続ける鈴木伸章さんは、自衛官時代から40年近く沖縄に住んでいる。 鈴木さんは1947年、福島県の旧・好間村(現在のいわき市)に生まれた。6人きょうだいの2番目、長男だ。大工の父は「お金は後でいいよ」という雰囲気の職人で、お金がない人への仕事を進んで請け負った。感謝はされたが、おかげで家計は苦しかった。 子どものころは「予科練の生き残り」という叔父の元で育った。太平洋戦争時、叔父は茨城県霞ヶ浦で海軍飛行予科練習生として訓練を積んでいた。特攻隊の仲間は戦地へ飛び立ち、叔父自身も出陣が決まって三沢(青森県)の飛行場へ行く途中、終戦を迎えた。 叔父は毎日、鈴木さんに「起きてから寝るまで飛行機の話ばっかり」した。趣味の模型飛行機を作りながら、飛行機の飛び方や構造、重心がどこにあるのかを教えてくれた。鈴木さんは叔父の話に熱中した。 「今思えば、あの時に将来を決められた」と振り返る。 福島県立小名浜水産高校(現・いわき海星高校)の無線通信科で学んだ。高校3年時に日本航空への入社を目指したが、規定の身長に「2センチくらい足りなかった」ために断念。担任が「自衛隊ならお前の身長でも入れるかもしれない」と教えてくれ、機上無線員として航空自衛隊に入隊した。 初めは埼玉や茨城の飛行場から、輸送機に乗って無線任務をこなしていた。しかし夢だった空を飛ぶ日々にも、「輸送機は同じことの繰り返し。単調でつまらなかった」。 「飛行機に乗っていると格好いいけど、生きがいも欲しい」と人命救助を担当する航空救難団への異動を希望。「やってよかったと思いたい。自分の力で人を助けたい」と思った。 沖縄の本土復帰から2年がたった1974年8月、那覇基地那覇救難隊へ赴任する。 当時の沖縄はまるで外国のようだった。 「半分アメリカ、半分日本だった」と言いながら、当時の雰囲気を懐かしむ。「タクシーの窓は閉まらず、大雨の時も開いたまま。バスは床に穴が開いていて、運転手も裸だし。バス停じゃなくどこでも停まっていた」 自衛隊には独特の視線があった。 「(沖縄に来て)失敗したなーと思った。制服で基地の外に出られない。隣近所に知られないように、私服で通勤しないといけなかった」 住民の気持ちを逆なでしないように、と沖縄の自衛隊員は私服通勤が義務付けられていた。 「戦争の時に、日本兵が悪いことをしたから。あの時は徴兵制だから、良い人も、そうでない人もいる。沖縄戦で日本兵に悪さをされた人も多いから」